「そこで彼らは『どこからか、分らない』と答えた。すると、イエスは言われた。『それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。』」
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(ルカによる福音書20章7〜8節) |
主イエスはエルサレムを見ながら、泣かれた。「神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」(19章44節)「時をわきまえない」ということは悲しいことだ。主イエスによって「神が訪れてくださっているのにこの神の業が見えないのだ。主イエスはエルサレムを見て、民衆を見て、わたし達を見て泣かれる。しかし主イエスと共に泣くものはいない。
エルサレムに入り、主イエスは神殿の境内から商売人を追い出された。「祈りの家を強盗の巣にした」と主は激しい怒りを示される。まさに主は「祈りの家」を「礼拝の場」を整え「福音を告げられた」。
祭司長、律法学者や長老が主イエスのところに来て「何の権威でこのようなことをしたのか」と問い、主との問答がなされる。主イエスはバプテスマのヨハネを指し示された。
ヨハネは激しく悔い改めを求めた預言者だ。民衆は天からの預言者と信じていた。主イエスは彼らに「ヨハネの洗礼は天からか、それとも人からか」と問い返される。「人からだ」と言えば、「天からだ」と信じている民衆に神を冒涜するものとして石で打ち殺されることを恐れて「どこからか、分らない」と答えた。これに対して「それなら、何の権威でこのような事をするのか、わたしも言うまい。」とお答えになって彼らとの問答を打ち切られる。
神殿で天の業がなされ、天からの福音を主イエスによって告げられているのに、この主イエスが見えない。「神の訪れてくださった時をわきまえない」それ故に主イエスは泣かれた。
主イエスと共に泣くものはいない。今、主イエスに喜び従う民衆も、主イエスと共に泣くことはない。
「それなら何の権威でこのような事をするのか、わたしも言うまい。」と主イエスは黙って十字架の道を歩まれる。
今、主イエスを囲み、主イエスに喜んで従っている民衆も、数々の奇跡と力ある業を見ながら、主イエスに従い抜くことは出来ない。
黙って、十字架の道を進む主イエスに失望し、躓き、やがて「十字架につけよ」と叫ぶ民衆に変わる。
主イエスは人間の罪の深みに沈んでいかれる。「天からのお方、天の権威を持っておられるお方」が人間の罪の中に沈んでいかれる。「神の訪れてくださる時をわきまえない」わたし達の為に。
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