「1ムナ」  石橋秀雄牧師

 


「最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの1ムナで10ムナもうけました』と言った。」

(ルカによる福音書19章16節)

 マタイによる福音書のタラントンの話はルカによる福音書のムナの話より有名だ。
 そこでは「5タラントン、2タラントン、1タラントンを僕たちに預けて旅に出た主人の話」として記されている。
 しかし、ルカによる福音書では、公平に10人の僕に10ムナ、すなわち1ムナずつ与えている。
 ムナは三ヶ月分の給与の額と見られている。一ヶ月20万円としたら60万円くらいになる。この額は少なくないが、事業をしてもうけるのには多いとは言えない。
 しかし、1ムナは確実に膨らんでいく力を持っていることが示される。最初の僕は十ムナをもうけた。その働きが主人の評価を得て、さらに十の町が預けられる。5ムナもうけた僕も評価される。
 しかし、三番目の僕は布に包んでしまっておいた。彼は主人を恐れ、世間を恐れて、与えられた1ムナで働くことをしなかった。
 1ムナ与えられた時、感動した。小さな額ではない。しかし、教会の迫害の嵐が吹きまくり、命が脅かされる危機の中で揺れ動く。
 1ムナでは、闘えないと判断してしまう。
 1ムナで闘わず、布に包んでしまっておいた。
 すなわち、信仰をもって危機の中で生きることをしなかったのだ。
 1ムナとはペトロの説教の中に示される。
 使徒言行録2章38節、「すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』」この説教を聞いてバプテスマを受けて三千人が仲間に加えられたと41節に記されている。
 三千人がバプテスマを受けたということは、3000ムナが与えられたことになる。悔い改めてバプテスマを受ける時、主イエスの十字架によって罪に死に、そうして主イエスとともに死から復活し、復活の命をいただいて生きるものとされる。この主イエスを信じる信仰が与えられたのだ。これが1ムナとして示されている。
 1ムナは三ヶ月分の給与の額だ。少なくはない。思いがけない救いの体験だ。しかし三番目の僕は布に包んで使わなかった。恐れがあったからだ。社会の現実は厳しい。迫害の嵐が吹き荒れているときに1ムナでは力にならないと思ったかもしれない。1ムナで闘わなかったのだ。
 バプテスマを受けて救われた。しかし、迫害の嵐が吹き荒れている状況では、1ムナでは闘えない。主イエスから与えられた賜物は小さくない。単に1ムナではないのだ。それを使えば5ムナ、10ムナと信じられないほど膨らんでいく。

 越谷教会月報「みつばさ」2014年6月号より



画像:紫陽花は2013年6月20日に幸手・権現堂堤で撮影しました。