「驚 き」  石橋秀雄牧師

 


「十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。」

(ルカによる福音書18章34節)

 ある教区で「神の敗北」という言葉を聞いた。按手礼式で所信表明をした先生が、自分の勤める精神病院でよく言われる言葉だという。
 自分の力では直せない。医師の治療にも限界がある。祈ることも空しくなるような病の苦しみの中で語られる言葉だ。この現実の中で教師として立ち、神の言葉を聞き、神の言葉を聞きながら牧師として働きたいという所信表明に心が動かされた。
 主イエスはエルサレムに顔を向けて歩まれる。そこには断固としてのご決意が示される。
 「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」(32〜33節)と弟子たちに語るが、弟子たちは「その意味が隠されていて何も分からず、理解できなかった」と記されている。
 「神の敗北」、主イエスは、まさにその道を進まれるというのだ。
 「人の子は三日目に復活する」とある。しかし、主イエスの復活よりも、四つの福音書を見ると十字架の苦難に多くのページが割かれて記されている。
 主イエスの復活が全てだ。
 しかし、福音書を記した記者たちは主イエスの十字架の苦しみについて多くを語る。
 そこに驚きがあったからだ。
 神の子が死の道を、主イエスは、神の敗北と見える十字架の死に向う道を歩まれる。どの福音書も十字架の苦難を丁寧に記す。復活の主イエスは弟子たちに十字架の苦難の意味を教える。死の意味が示され、その驚きが福音書に記されるのだ。神が、復活の主イエスが教えてくださらなければ、絶対に分からなかった主イエスの苦難の意味が理解され、弟子たちは驚き感動して福音書に記す。
 神の敗北、神が死んだと思える人間の苦難を全て背負って十字架の道を歩まれた主イエス。
 神の敗北と思える現実の底に主イエスの十字架が横たわっている。
そこに「三日目に復活する」と言われた主イエスの御言葉が実現し復活の光が注がれる。
 神の敗北と思える現実の中に復活の光が注がれるのだ。
 わたしたちは「神の敗北」と見えるどうすることもできない現実の中に生きなければならないことがある。
 しかし、そこに復活の光が輝き、十字架と復活の主に結ばれた人生を歩むことがゆるされている。
 ここにわたしたちの生きる希望と力と慰めがあるのだ。

 越谷教会月報「みつばさ」2014年5月号より



画像:楓の花は 「朝焼け・夕焼け写真日記」からお借りしました。