「罪人のわたし」  石橋秀雄牧師

 


「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」

(ルカによる福音書18章13節)

 徴税人はイスラエルの人々からは裏切り者と見られていた。ローマに支配されているイスラエルの人々はローマに税金を納める屈辱を味わって生きていた。
 このローマの手先になって税金を集める徴税人は忌み嫌われていた。
 罪人と同じに徴税人は見られていた。
 徴税人もローマの支配の中でその力のもとであくどくお金を集めていた。
 この徴税人は祭壇から遠く離れて立っている。神から遠く離れて立つのだ。
 この徴税人は自分の罪に打ちのめされている。
 神の怒りの中にある自分を思い知っている。
 目を天に向けて祈るのが一般的な祈りの姿勢であった。しかし、この徴税人は「目を天に向けること」が出来ず、「神から遠くに立つ」彼は祈ることが出来ない。祈りの道が罪のゆえに閉ざされている。罪の中にいるとき、祈ることが出来ない。罪の最大の力は祈りを奪う事だと言ってもよいと思う。
 徴税人の最大の苦しみは祈る道が閉ざされていることだ。
 徴税人は「目を天に上げようともせず、胸を打ちながら『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」と言う以外にないのだ。
 彼が自分の胸を打つということはどれほど自分の罪に苦しみ、後悔の念が強いかを示している。
 彼は「罪人のわたし」と言っている。「罪人の我々」ではない。わたしの罪は深い、自分の罪深さに絶望し、祈ることも出来ないのだ。彼は「罪人のわたしをお許しください」と祈ることが出来ないのだ。
 徴税人は自分を「罪そのもの」と受け止めている。「罪そのもの」である故に、ただただ「憐れんでください」と心の中で叫ぶ以外にない。
 この罪の深い底からの叫びを神は聞いてくださるのだ。祈ることも出来ない、祈りの道が閉ざされた者の罪の深みからの叫びを神は聞いてくださるのだ。
 「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」(14節)
 驚くべき神の憐れみが示されている。罪そのものの徴税人の叫びを主は聞いてくださり、聖なる神の家に迎え入れられたのだ。
 だから、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」(1節)と教えられるのだ。

 越谷教会月報「みつばさ」2014年4月号より



画像:花筵は 「朝焼け・夕焼け写真日記」からお借りしました。