「そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。・・・『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。・・・わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』」
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(ルカによる福音書16章23節〜24節) |
主イエスは金持ちとラザロの譬え話をされた。金持ちとラザロが死んで、金持ちは陰府に落ちて苦しみ、ラザロは「天使によって宴席のアブラハムのすぐそばに連れていかれた」と語られていく。
主イエスの譬え話の中で固有名詞が出てくるのはここだけだ。ラザロという名前の意味を探って行けば「神は助ける」という意味になるという。ラザロは、貧しく、できものだらけで苦しみぬくが、しかし、「神の助け」「神の憐れみの中で生きた」ために神の国の宴席でアブラハムのすぐそばに導かれた。
しかし、金持ちは「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」(19節)ために陰府に落ちてしまった。彼は生前に神の憐れみにすがることはなかった。彼は、人生を喜び楽しみ、満ち足りた人生を送り、神を必要としない人生であった。
盛大な葬儀が行われ、金持ちは死んで陰府に落ち、炎の中でもだえ苦しんだ。
この陰府の激しい苦しみの中から「はるかかなた」ではあるが「宴席が見えた」のだ。
苦しみの極限から神の永遠の世界が見えたと語られる。今まで見ようともしなかった神の世界だ。
苦しみの極限の中で、彼の人生で一度も口にしなかった言葉が発せられている。
「わたしを憐れんでください。」(24節)
金持ちは自分の惨めさを思い知った時、はるかかなたではあるが「神の世界」を見ることが出来た。
神の世界が最も近くなったのだ。
しかし、そこには「越えがたい大きな淵」があった。
ユダヤ人は、モーセと預言者によって神の言葉が生活の中に指し示され続けていた。神の言葉が神の言葉として、その生きる世界に示され続けていた。この神の言葉を聞くことがない人生であった時、神に立ち返る道は閉ざされてしまったのだ。
金持ちは苦しみの極限から、今生きている五人の兄弟のために天から「ラザロを遣わして欲しい」と求めるが、天からラザロを遣わしても、「聞き入れはしないだろう。」(31節)。無駄なことだと語られる。
しかし、この無駄な業を主イエスがなされたのだ。主イエスは死んでよみがえられたのだ。
あの金持ちを救うために、その五人の兄弟を救うために、わたし達を救うために。私たちがラザロになるために。すなわち、神の憐れみの中で生きる者になるために。
主イエスは十字架に死んでよみがえられたのだ。
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