「主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。』」
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(ルカによる福音書14章23節) |
「神の国で食事をする人は、何と幸いなことでしょう」(15節)と主に言う者がいた。神の国について主イエスはしばしば宴会に譬えて教えられている。
神の国に招かれるのは神だ。招く側の熱心、神の熱心について教えられる。
当時宴会が催される時、まず、招待される。次に宴会の用意が整ったときに再び案内がなされ出席を求められる。案内が二回された。
二回目の案内の時「畑を買ったので、見に行かねばなりません」「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです」と断ったと語られていく。断る理由はもっともなことだ。
しかし、自分が招待されるに相応しいと思っている人ほど、招待されたことを軽く見てしまう。
自分は神に近いと思っている人ほど神の招きを軽く見る。
ファリサイ派の人や律法学者、長老など一番神に近いと思っている人が主イエスを拒否し、主イエスを十字架にかけ、主イエスを通して神の国に招かれる神の招きを軽く見る。軽く見るどころか神の招きを拒否してしまうのだ。
「あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。」(24節)と主の言葉は厳しい。この最初に招かれた人々は神に選ばれた民だ。この神が愛した選びの民に悔い改めを迫る御言葉として聞くことができる。神の招きを拒否して神の国への道が閉ざされることがあってはならないのだ。
「主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。』」
神の熱心と一途さが示される。
「通りや、小道」このようなところまで宴席への招きを告げる使者が来るとはだれも思わない。
神の国を失うことがあってはならない、喜びの宴席を失う者があってはならない。「とにかく喜び溢れるところだから、無理にも連れて来なさい」と神の熱心と一途さが示される。
「通りや、小道」とは神の国から遠い「地の果て」である。神の国とは無関係に生きる者である。聖書の神を知らない、聖書の神を無視した世界に生きる神から遠い私たちが「神の国」に招かれる。
神の熱心と一途さの中でわたしたちは救われたのだ。
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