「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」
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(ルカによる福音書11章20節) |
「悪霊にとりつかれたり、悪霊と共に生きたり、悪霊を持ったり」と悪霊に関する話が新約聖書には沢山でてくる。
この悪霊についての聖書の出来事を読むと、そんなことあるはずがないと問う。
しかし、2000年前の主イエスの時代の人々は、疑うというよりは「そのような事を行ったのは誰か」と問う。
2000年前の時代的状況の中で、「悪霊の仕業」で「人間を越えた力」で悲しみや、苦しみの底に沈められると信じられていた時代だ。
この時代の人々の痛みや苦しみに主イエスは心を向けられ、その解放者として働かれる。
いつの時代でも主イエスは、その時代の中で、どうする事も出来ない問題からの解放者として働きつづけてくださる。
「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(20節)とある。
この主イエスの御言葉は「神の国はあなたがたのところに来た」との宣言の言葉だ。
「神の指」については出エジプト記8章に出てくる。
神の指の業によってイスラエルはエジプトから解放され、信仰共同体としてのイスラエルの国がつくられていく。
神の指が動くとき人間は解放されるのだ。その時代の苦難から、そして、その人の生活の苦難から解放される。
古代社会の人々はベルゼブル、この悪霊の頭の前に無力であり、ベルゼブルの支配から救われたいと願っていた。
わたしたちの時代においても、サタンの業としか思えないような問題の中に、苦しみの中に落とされ、自分の無力を思い知らされる。この苦難の中に「神の指」が働き、支えられる。そして、何より私たちは、罪に対して、死の力に対して無力だ。ここから救われなくてはならない。
主イエスはその為に十字架に死に、そして復活された。
洗礼は神の救いとは何かを示している。洗礼によって主イエスと共に死に、そして、主イエスと共に神の国の命、復活の命を持つものとして甦るのだ。
この事によって、神の国の中に生きるものとされている。これ以上の幸いはない。
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