「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」
|
(ルカによる福音書11章4節) |
三位一体という用語を用いた、最も古いものはテルトリアヌスによるものだ。このテルトリアヌスが主イエスの祈りについて、「福音全体を最も簡潔にしたもの」と言っている。
マタイによる福音書の、主イエスの祈りが私たちの祈りと重なる。ルカによる福音書の、主イエスの祈りはマタイより簡潔な祈りとなっている。福音の中心がズバリ、ルカによる福音書によって示される。主の祈りを祈ることによって神の救いを深く心にとめ、神の力を豊かに受けうるのだ。
ルカが示す主イエスの祈りは、「父よ」と呼びかけられる。これは家族用語だ。アラム語で「アバ」という言葉で、父親を『お父さん』と信頼しきって呼ぶ言葉だ。当時は、大いなる偉大な神を「アバ」と呼ぶことは許されることではなく、神を冒涜する呼びかけと受け止められる時代にあって、大胆に神に近づき、「アバ父よ」と親しく神に呼びかけ祈る事ができる。
子どもが親に必死に話し、願い求めるのに、危機の中で親に助けを求めているのに、助けないということになると、それは親ではない。子が必死に祈り願っているのに、もし聞かないということが起こったら、それは親ではない、神ではなくなってしまう。「アバ父よ」と神に祈ることを許してくださるという、そのような神になってくださったのだ。
まさに主イエスは十字架によって、このような神との深い、親と子が切り離すことができないように、神との関係も切り離しえない関係の中に、罪深い、神から遠い、わたしたちが、親しく「アバ父よ」と呼びかける関係の中に招き入れてくださったのだ。この十字架の主の救いの業を褒め称え、そして、主イエスの祈りの中心が示される。
「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」
自分に負い目のある人、自分に損害を与えたもの、自分に痛手を与えたものを赦せない。怒って当然だ。私たちはそのような人を怒り、そして人を裁き去る。エフェソの信徒への手紙4章26節には、どのような正当な理由があったとしても怒り続けると「罪を犯すことになってしまう」と記されている。
自分が損害をこうむった。怒って当然だ。しかし、主イエスの十字架の赦しの中に生かされるものとして、自分の怒りを見つめ直すとき、本当に怒り続けることが出来るのか、その自分の正しさは本当に正しいのか、そのように怒り裁くことができるのか問われる。
主イエスの十字架によって、「アバ父よ」と呼びかける関係の中に招き入れられたのだ。それゆえに「神がキリストによってあなた方を赦してくださったように、赦し合いなさい」との御言葉が響く。
怒りを越えて、赦し合う関係を回復するために、日々熱く祈る事が主の祈りによって示されている。
|