「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。」
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(ルカによる福音書9章46節) |
「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」(ルカによる福音書9章44節)と主イエスが語られた直後に、弟子たちの間で「自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた」と記されている。理解できない、理解されないということは悲しいことである。特に深刻なことは、主イエスの身近にいる弟子たちが、主イエスを理解することができなかったということだ。
「人の子は人々の手に渡される」とは、「主イエスが殺される」ということだ。
主イエスが十字架に目を向けて、死を見つめて歩み始めておられるその主イエスを、 身近にいる弟子たちは理解できない。
理解出来ないどころか「弟子たちの間でだれがいちばん偉いか」という議論が起きた。
主イエスを理解できなかったために全ての弟子がやがて主イエスを裏切るのだ。
最後の晩餐の席で、裏切りの罪を犯すユダについて「生まれなかった方が、その者のためによかった」と主イエスは指摘される。
理解できないということが、「生まれなかった方がよい」と言われる重大な罪を犯すことになってしまう。
この罪を主イエスは糾弾されない。ユダは主イエスを裏切ったことを後悔し、自分で自分の人生に決着をつけてしまった。首を吊って自殺してしまったのだ。もし、彼が自分で自分の罪を犯した人生を主イエスに委ねたなら、復活の主イエスによって救われたに違いない。
「エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。」(ホセア書11章9節)
「生まれなかった方がよかった」と言われるほどの罪を犯してしまった。しかし、神は怒りに燃えて裁くお方ではなく、「エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない」と主が語られる。
弟子たちはいちばんを求めている。だれよりも偉くなり、だれよりも力を持つ者となり、そのために、他者を地位ある場から引きずり降ろしたり、邪魔になる者を排除したり、損害を受けたら仕返しをしたりする。
しかし、主イエスは「神であって、人間ではない」のだ。「神に敵対し、神を裏切り、生まれてこない方がよかった」と言われるほどの罪を裁くのではなく、背負って十字架の道を歩まれるのだ。人間の目には神を感じない。弱くなり、縛られ、鞭打たれ、十字架に釘付けされて殺されていく。
徹底的に貧しくなられ、弱くなられ、小さくなられて十字架に死んでくださる。ここに神の業がある。
「主イエスは神であって、人間ではない」のだ。
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