「栄光に輝く主」  石橋秀雄牧師

 


「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。」 

(ルカによる福音書9章31・32節)



 新しい年の最初の礼拝で「栄光に輝く」主イエスのお姿を記す聖書の言葉が示される。クリスマスにマリアを母として誕生した主イエス、そこには何の輝きもない。本来の神の子の輝きは内に隠されている。しかし、真っ白に輝く主イエスが示される。外の力で輝くのではない。内からの輝きだ。クリスマスから内に隠されていた本来の神の子の姿が現される。そして、この輝きは主イエスの復活の輝きを示すものだ。
 わたしたちの新しい年の歩みは光り輝く主の栄光、復活の主の光りの中にある歩みだ。この主の栄光の光りの中にある歩みが始められる。
 22節で主イエスは初めて十字架の死と復活の予告をされた。それを受けて復活の主の栄光のお姿が主のご生涯で唯一度現された。
 「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。」(29節)
 時は夜であったことが、「ひどく眠かった」と弟子たちの姿をルカが記すことによって示される。
 「光りは暗闇の中に輝いている」との御言葉をクリスマス礼拝で学んだ。クリスマスの出来事も、今日の出来事も夜の闇の中で起こったことが示される。「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」。モーセとエリアの二人。律法はモーセを通して与えられ、エリアは預言者の代表だ。
 この二人がエルサレムで主が成し遂げられる「最期」について、十字架の死について話し合っていた。すなわち、旧約聖書を代表として、主イエスの業が旧約聖書の預言の成就であり、神のご意志であることが示される。「最期」と訳されている原語の意味は「脱出」だ。
 主イエスは十字架で人間の罪を担って罪の闇の底に、死の闇の底に沈んでくださった。
 その闇の深みから主は復活され、栄光に輝く主の光りが闇を吹き飛ばす。この主の力で闇からの脱出、死からの脱出、あらゆる闇からの脱出の道が開かれる。新年のわたしたちの歩みは栄光に輝く主の光りに包まれている。

 越谷教会月報「みつばさ」2013年1月号より



画像:「氷の美2」 朝焼け・夕焼け写真日記からお借りしました。