「いったい何ものだろう」  石橋秀雄牧師

 


「『ヨハネなら、わたしが首をはねた。
いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。』
そして、イエスに会ってみたいと思った。」
(ルカによる福音書 9章9節)


 主イエスの業が神の業としてなされていることをルカによる福音書は記している。病気を癒し、群集が主イエスに押しかけ、その弟子たちも、主イエスの業を行っている(十二人の派遣)。その働きを耳にして領主ヘロデは戸惑いながら「何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」と言っている。
 主イエスの弟子たちも、舟に乗りこんでいる時、突風で舟が沈みそうになり、風と波を静めた主イエスを見て「いったいこの方はどなただろう」と問うている。
 多くのしるしを見ながら、主イエスになお「どなただろう」と問う弟子たちを、不信仰と主イエスは叱られる。
 神の業を興味本位で見、「何者だろう」と問いながら、主イエスに会って、そのしるしを見たいと思う領主ヘロデ。
 ルカによる福音書はこの問いに対する答えを思いもよらないところで示していく。神が働いているとは思えないところで、この問いに対する答えを示していく。
 主イエスが逮捕されて裁判にかけられ、大祭司やピラトやヘロデの尋問を受け、十字架の道を歩まれるところにおいてだ。ルカによる福音書23章で主イエスに会って喜ぶ領主ヘロデが記されている。
 ヘロデがエルサレムに滞在している時、総督ピラトから囚人イエスがヘロデのところに送られ、ヘロデは鎖につながれた主イエスを尋問する。ヘロデは主イエスに会えた事を喜び、奇跡を行う事を期待する。しかし、主イエスは沈黙されて何もなさらなかった。この主イエスを見て、ヘロデは一転して主イエスを自分の兵士たちと共に「あざけり、侮辱した」とルカは記している。
 沈黙の主イエス、囚人として十字架の道を進まれる主イエスにおいて明らかにされていくことは人間の罪だ。
 神の業を見ながら信じきることが出来ず、あっけなく捕らえられ、十字架の道を進む主イエスに躓いて主イエスを裏切る弟子たちの罪。
 大祭司、長老、律法学者は主イエスへの妬みから主イエスを捕らえ、十字架につけていく。神の業を興味本位で見るヘロデ、主イエスを喜び迎えていた群集は、沈黙し無力をさらす主イエスに躓いて「十字架につけよ」と叫ぶ。
 黙って十字架の道を歩まれる主イエスの姿の中に「いったいこの方は、どなただろう」との問いの答えをルカによる福音書は示していく。すなわち、人類の神の前での罪、私たちの罪、あらゆる人間の罪を背負って十字架に死んでいく、そこにメシアの業があり、まさに主イエスこそキリストであることが示される。

  

 越谷教会月報「みつばさ」2012年12月号より



画像「中山競馬場のクリスマスツリー」 は 朝焼け・夕焼け写真日記からお借りしました。