「主の切実な叫び」  石橋秀雄牧師

 


「イエスはこのように話して、『聞く耳のある者は聞きなさい』と大声で言われた。」
(ルカによる福音書 8章8節)


 
 「種を蒔く人」の譬えは、マタイ福音書、マルコ福音書にも記されている。しかし、大声で語られる主イエスを語るのはルカ福音書だけだ。
 「種を蒔く人」の譬えを語る主イエスは、大声を出し、切実な思いで、閉ざされた人間の耳をこじ開けて聞かせたいと語られる。
 当時の種蒔きは、今日のように鍬で耕した地に植えるのではない。いきなり種をばら撒くのだ。それゆえ、色々な地に落ちる。
 ここでは殆どが実をならすことが出来ない地に落ちた。それは「道端であり、石地であり、茨の中」である。大部分は実を結ばないのだ。
 「また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」(8節)
教会でもなかなか実を結ばないように思える。教勢は上がらず、百倍の実を結ぶ教会があるのだろうかと思ってしまう。
 百倍の実を結ぶ良い土地とは「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」(15節)と語られる。
 この「良い地となって行く道」は、大声で語られる主イエスの御言葉に聞くことから開かれる世界ではないか。
 種蒔く人は種が実りの時を迎えることを信じて種を蒔くのだ。
 道端であろうが、石地であろうが、茨の地であろうが、種が蒔かれるのだ。
御言葉の種をはねつける道端、御言葉の種が育たない石地、御言葉の種が芽を出し育っていっても茨が成長を阻んでしまう地、それでも種が蒔かれるのだ。
 「神の言葉をはねつける人間の罪」を背負って主イエスは十字架の道を歩まれる。道端になった私たちの耳、石地になった私たちの耳、茨の誘惑にあう私たちの耳をこじ開ける為に、十字架の道を歩まれる。神の言葉を拒否する罪を背負って十字架の道を歩まれるのだ。
 十字架と復活の主イエスの言葉に力がある。道端に、石地に、茨の地に入って豊かに実らす力が、主イエスの御言葉にはある。
 だから主イエスは叫ばれるのだ。「『イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。』」
 今、道端であっても、石地であっても、茨の中であっても、荒れ果てた畑であっても、主イエスはその地を退けない。
 パウロは「成長させてくださるのは神です」と語り、そして「あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」(第一コリント9章9節)と語る。
 ここでは、どのような畑であるかは問われていない。荒れ果てた畑か、石地の畑であるかもしれない。その畑を神の畑としてくださり、神が住む神殿に変え、そこに主イエスが住んでくださるのだ。力ある御言葉が私たちの地に蒔かれるのだ。御言葉は必ず私たちの中に蒔かれて、実る。私たちの中で百倍の実りを上げるのだ。
 主イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で叫ばれ、兎に角御言葉を聞く者になって欲しいと私たちを招いてくださっている。

  

 越谷教会月報「みつばさ」2012年10月号より



画像:オクラの花と夕焼け は 「朝焼け・夕焼け写真日記」からお借りしました。