「祈って夜を明かす」  石橋秀雄牧師

 


「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」
(ルカによる福音書6章12節)


 主イエスは十二人を使徒として選ぶ前に夜を徹して祈られている。主の熱い祈りは十二人の選びと共に、罪に沈んで行く者たちに対してなされている。
 主イエスは「安息日の主である。」(ルカによる福音書6章5節)と語られた。
 安息日にささげられる礼拝の中心に主イエスがおられる。その主の前で、重大な罪に沈む者たちがいる。
 律法学者やファリサイ派の者たちだ。「彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。」(同11節)
 この御言葉の後、「神に祈って夜を明かされた」とルカは記す。
 礼拝の場で、礼拝の中心におられて、礼拝をされるお方を、神に近い者、神に喜ばれている者と自認している者たちが、主イエスを殺す相談を始めるのだ。
 これほどの罪はない。
 「神に対して背き、過ちを犯したものが、どうして生きる事が出来るでしょうか」と苦闘する。「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。・・・立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。」
 「どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(エゼキエル33章10節〜11節)
 神の強い御意志が示される。
 「立ち帰れ、立ち帰れ」と切実な呼びかけが繰り返されている。
 罪を犯したものが、罪の中に滅んで行くのを神は喜ばれない。
 主は夜を徹して、熱い祈りをされる。
 主イエスに激しく怒り、主イエスを殺そうと相談する律法学者とファリサイ派の者たち、主は彼らの滅びを、罪の中に沈んで滅んで行くのをお喜びにならないのだ。
 「立ち帰れ、立ち帰れ」と切実な祈りをされながら、十字架の道を歩んでいかれる。
 罪の中に死んで行くものがあってはならないのだ。罪の中に滅んで行くものがあってはならないのだ。
 その罪を背負って十字架に死なれ、罪からの救いを実現してくださった。
 私たちが、罪に滅んでいく者であってはならないのだ。
 主イエスの夜を徹した熱い祈りが、わたしたちの為に献げられている。
 

 越谷教会月報「みつばさ」2012年7月号より



画像:右巻左巻ネジバナ は 「朝焼け・夕焼け写真日記」からお借りしました。