「マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。」
「かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」
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(マタイによる福音書27章61節・28章6節) |
神は死んだと言われるような悲惨な出来事が、人間の歴史の中で繰り返される。第一次世界大戦の後、「あれほどの世界規模の戦争が起こってしまった。神が本当にいるならば、あのような悲惨な戦争は起こるはずがない、神は死んだ」と言われた。
東日本大震災でも神は死んだ、神はいないと言う声が聞かれた。
まさに神はいない、神などいるはずがない、神は死んだと言われる中に神はおられるのだ。
主イエスは、三位一体の子なる神は、十字架で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫び大声をあげて息を引き取られた。三位一体の子なる神の死だ。
三位一体の子なる神は死んで墓に納められた。
墓を見つめる二人のマリアをマタイは強調して記しているように思える。
「マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。」
愛する師、主イエスの死に取り乱し、泣き叫ぶ二人のマリアとは記していない。
墓に向かって座る二人のマリアをマタイは記している。ここにマタイの信仰を見る。
ただ静かに神を信じて墓を見つめなさい。慌てふためく事はない、ただ信じて絶望を見つめなさい。絶望の中に、墓に働く神の大いなる業を見つめなさい、と墓に向かって座る二人のマリアを通して語っているように思える。
マタイは墓の中の主を、死の身体を横たえる主を直視させる。
墓に向かって座っていた二人のマリアは、主イエスの復活の日の朝、この墓から思いがけない大いなる喜びに満たされる。
墓を見つめていた二人のマリアに天使の言葉が響きわたる。
「かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」(6節)
絶望の底が希望の場に変わっている。墓が大いなる神の業を見る場に変わっている。
わたしたちの信じる神は、墓の中に、神は死んだと言われるような絶望の中に働き、絶望の場を希望と喜びにあふれる場に変えてくださるのだ。
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