「天が開け」  石橋秀雄牧師

 


「イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」

(ルカによる福音書3章21節〜22節)



 主イエスはヨハネが授けていた洗礼の場に来てくださっていた。
 ヨハネは「履物のひもを解く値打ちもない」とヨハネの後に来てくださる救い主を指し示す。
 履物のひもを解く仕事は奴隷のする仕事だ。さらにユダヤ人の奴隷は履物のひもを解く仕事は拒否した。そのような卑しい仕事は奴隷といえどもユダヤ人はしなかった。ヨハネが指し示すお方は、ヨハネにとってこの履物のひもを解く値打ちもない大いなる存在である。
 この大いなるお方が、ヨハネが洗礼を授けた人々の中に来てくださった。
ヨハネの洗礼は人間の業だ。
 神の前に悔い改めて、神に立ち帰ったしるしとしての洗礼だ。
 この洗礼を、大いなるお方が、神の子が受けておられる。人間の業である洗礼に主イエスご自身も身を沈めてくださった。
 罪のないお方が、罪人となって、わたしたちの受ける洗礼を受けられている。
 「イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」と御言葉に示される。
 その時、「天が開かれた」のだ。
 主イエスによって、人間の業の中に神が働き、天が開かれ、天とつながる業となる。主イエスが来てくださる事によって起こる事だ。
 天が開かれて、聖霊が鳩のように降り「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」との天からの声が聞こえた。
 神は「御心に適う者」を捜し求められて来た。しかし、人間世界に神の御心に適う者はいない。神の前に罪を重ねる人間の歴史に、人間世界に「御心に適う者」はいない。それ故、「天が閉ざされて」いた。
 しかし、この世界に天を開くお方が罪の悔い改めとしてのヨハネの洗礼の場に来てくださった。主イエスが洗礼を受けた時、天が開かれ、聖霊が降り、「『わたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」と御言葉に示される。
 神は喜び、主イエスの洗礼を受け入れられている。
 主に従って、洗礼を受ける時、その洗礼を神は主に語られた同じ言葉で受け入れ、わたしたちは神に喜ばれる者として、神に、天につながる者とされるのだ。


 越谷教会月報「みつばさ」2012年3月号より



画像:メジロと桜は 「朝焼け・夕焼け写真日記」からお借りしました。