「御心に適う人」  石橋秀雄牧師

 


「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

(ルカによる福音書2章14節)



  羊飼いたちが野宿をしながら夜通し羊の番をしていた。この羊飼いたちは突然、主の栄光の光に包まれた。
 神の光に包まれる羊飼いたち、神との尊い交わりに招かれる羊飼いたち。ここで、神に招かれる者について、ルカによる福音書14章13節に次のように記されている。
 「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」
 当時、このような人々は宴会に招かれることは無かった。人々の交わりの外にはじき出される痛みと悲しみを背負っている人々が、神の招待者となっていくことが示される。
 羊飼いたちはこの神の招待者の中に組み入れられる。
 羊飼いたちは町や村、人々の交わりからはじき出された人々だ。汚れた者と見られ、神からも遠い存在と見られていた。
 この羊飼いたちに神の光が注がれ、驚くべき神の業が告げられる。
 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」
 救い主の誕生が羊飼いたちに真っ先に知らされて、天の軍勢の賛美の歌が響き渡る。
 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
 「神の御心に適う人」とはどういう人であろうか。
 神の御心に適う人と問われたら、自分はその適格者と応える人がいるだろうか。神の御心に適う者などいるはずがない。
 しかし、「神の御心に適う人」と言われているところに希望がある。
 ルカによる福音書18章9節以下に神殿で祈るファリサイ派と徴税人が記されている。
 ファリサイ派の人は「『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。・・・』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」
 神の徴税人が神の御心に適う者とされている。
 神の憐れみの中に生かされる時、悔い改めざるを得ない。
 羊飼いたちに、神の光があたるはずの無い者に神の光が注がれる。徴税人に主の熱い目が注がれる。この自分に注がれる神の愛を知る時、悔い改めの思いが沸き起こる。
 このような私を御心に適う者として主の尊い交わりに招いて下さっているのだ。

 越谷教会月報「みつばさ」2012年2月号より



画像:白鳥カルテットは 「朝焼け・夕焼け写真日記」からお借りしました。