「時がくれば実現する」 石橋秀雄牧師

 

「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」

(ルカによる福音書1章20節)

 神の大いなる救い(クリスマス)の始まりは、ひっそりと痛みと悲しみをもって生活する夫婦からであることが、ルカによる福音書によって示される。
 祭司ザカリアとエリサベト、ザカリアとは「神に覚えられている、神が忘れない」いう意味がある。
 「エリサベト」は不妊の女であることが記される。この事は古代社会では大きな痛みであり、悲しみであり、祭司ザカリアの家系が途切れることを意味する。
 未来に希望を失って生きる夫婦である。
 この祭司ザカリアが表舞台に立った。
 祭司にとって神殿、この「主の聖所に入って香をたく」(9節)という一生に一度あるかないかという役割がくじ引きで当たった。
 この聖所でザカリアが「香をたく」務めをなしている時、神の言葉が響く。
 「あなたの妻エリサベトは男の子を産む」。すでに老人であるザカリア夫婦にとってはとうてい信じることができない。不信の言葉をザカリアは口にする。
 このザカリアに厳しい神の言葉が語られる。
 「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」
 神はザカリアから言葉を奪い、沈黙の中で彼は生きざるを得ない。この神の裁きは神の恵みを受け止める時となった。
 神はザカリア夫婦を「お忘れ」にならず、「時がくれば実現する」という神の言葉の真実を体験する時となった。
 妻エリサベトは「5か月の間身を隠していた」(24節)
 エリサベトは不妊の女であるが故に、人々から「身を隠したい」という思いが、この時、「喜びと楽しみに満たされる時」となった。エリサベトに神の言葉が実現したのだ。
 ザカリアの沈黙の時は「時がくればかならず実現する」との神の言葉の真実を味わい尽くす時となった。
 妻エリサベト、大きくなるお腹をさすりながら歌う彼女の神への賛美の歌に、体を動かしながら心で歌う、ザカリアの姿を想像する。
 彼らの間に誕生する子どもは「バプテスマのヨハネ」と呼ばれて、イスラエル中の人々に悔い改めを迫り、神に立ち帰らせ、救い主を指し示す預言者となる。
 神の言葉は、わたしたちの日常生活に起こる様々な現実の問題の中で、疑い、不信の呟きをはくことがある。
 しかし、神の言葉は「時がくれば実現する」のだ。救い主イエスは十字架と復活によって、わたしたちの中に 神の救いを実現してくださった。そして、救いの完成としての終末へと時が進んでいる。
神の言葉は「時がくれば実現する」のだ。


  

  越谷教会月報「みつばさ」2011年12月号より

画像:汐留のキャンドルツリー 「朝焼け・夕焼け写真日記」からお借りしました。




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