「イエスのようである」 石橋秀雄牧師

 

「この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。」

(ヨハネの手紙一 4章17節)

 「神は愛である」とヨハネの手紙で繰り返し宣言がなされる。「神の愛は完全だ」その愛の完全さが「この世でわたしたちも、イエスのようであるからです」と示される。
 「イエスのようである」とはどういうことであろうか。
 主イエスについては、十字架上の主を思い起こされる。
 十字架の主を見つめて人々は主を侮辱した。
 「他人を救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りてくるが良い。そうすれば信じてやろう」と侮辱した。
 「イエスは他人を救った」。他人を、人を救う為に、神の子の力を用いられ救われた。しかし、「自分を救えない」ということで侮辱されている。
 徹底的に他人の為に、人間の救いの為に、ご自身を捧げつくされた主イエスだ。
 十字架にご自身を捧げつくされた主イエス。
 主イエスが十字架にかかり息を引き取られた時に、ローマの百人隊長が「非常に恐れて」「本当に、この人は神の子だった」と告白した。
 その死の姿の中に、「神を見た」。
 「この世で、わたしたちもイエスのようである」とはどういうことであろうか。主イエスのように他者の為に自分を捧げつくすことはできない。
 「主イエスのように」なれないのだ。
 この部分についてヨハネス・シュナイダーは「神との交わりによってキリストと同質の者とされていることが、キリスト者の救いの確信と、最後の審判に関する信頼との基礎であることが論じられている」と記す。
 「神との交わりにおいて、キリストと同質の者とされている」とある。
 主イエス・キリストは神の子だ。神と一つなる存在だ。この主イエス・キリストと同質である。同じものとされている。
 主イエス・キリストが神と一つとされる交わりを持っておられるように、わたしたちも神と一つとされる交わりの中に入れられている。
 神の愛は完全だ。
 神との交わりにおいて、キリストが神と一つであるように、わたし達も神と一つとされる交わりの内に生かされている。
 「この世で、わたしたちもイエスのようである」とは何と畏れ多い事であろうか。
 まさに、神の完全な愛の内にあることを指し示す御言葉だ。


  

 越谷教会月報「みつばさ」2011年11月号より

画像:しし座流星群 「朝焼け・夕焼け写真日記」からお借りしました。




<