「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。」
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(ヨハネの手紙一 4章2節) |
教会の歴史の中で主イエス・キリストの理解をめぐって激しい論争が繰り広げられた。その論争の中で主イエス・キリストの救いが明確にされてきたという歴史がある。
この聖書の言葉も、教会の中での激しい闘いの中から主イエスへの信仰が明確に語られている。
偽預言者が大勢出てきて教会を混乱させた。その偽預言者の中には非常に霊的な教師もいた。聖霊に満たされて語っているように思えた。
しかしその霊は本当に神から出た霊なのかということが問われた。
神から出た霊でなければ、その教師はどれだけ霊的であっても偽預言者だと指摘される。
「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。」
神の霊によって語るかどうかということは、「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊だ」と語られている。
この言葉は主イエス・キリストの救いの急所を示している。
「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。」(3章1節)
これはヨハネの切実な言葉だ。父なる神がどれほどわたし達を愛してくださっているか、それは、主イエス・キリストが「肉となって来てくださった」というところに強烈に示されている。
日本聖書協会で年二回「ソア」という冊子を出している。その巻頭聖句と文書を書いて欲しいと依頼された。迷わずすぐ書いた聖句はマルコによる福音書15章37節〜38節だ。
「イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」
この御言葉に以下の文を書いた。
「東日本大震災の、津波による凄まじい破壊の跡のただ中に立って以来、主イエスの死を見続けている。著名な写真家は、この地獄図の写真を掲載する中で、『神様消滅』『いま神の存在を疑う』と記した。神は死んだ、三位一体の子なる神の死。その時、『神殿の幕が真っ二つに裂けた』。絶望の中に神の業を見る。今、主イエスの死を直視するところから、希望の道が開かれる」。
十字架の死という絶望の中に大いなる神の業が、救いの業が示される。
まさに神は死んだ、神はいないという地獄図の中に投げ出されることがある。しかし、そのただ中で十字架の主イエスに出会う。肉になった子なる神は、肉の問題、罪の問題、わたしたちの生活の全ての問題を担うお方として来てくださった。
「全ての問題が行き詰まった時に、その根底に罪がある。罪がなければ人間は何の問題もない」
(加藤常昭著『説教集』の中の森有正の言葉)
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