September






 

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 しかしローマ人たちは友好国や彼らに依存している国々とは、友好関係を維持したが、遠近を問わず王という王を制圧したため、その名を聞く者はだれでも、彼らを恐れるのである。 彼らが後ろ盾となって王にしようとする者は王となった。しかし、彼らが失脚させようとする者は失脚した。こうしてローマ人の名声は大いに高まった。だが、こうしたことにもかかわらず、彼らローマ人のうちだれ一人として、栄誉を願って冠をつけたり、紫の衣を身に着けたりする者はいない。

(マカバイ記一 8章12〜 14節)

 




 

 女王のサロメ・アレクサンドラは長い間、ハスモン朝の王家を纏める役割をしてきましたが、紀元前67年にとうとう亡くなってしまいました。彼女の死後、息子たちヒルカノス2世とアリストブロス2世の継承争いは益々激しくなって行きます。
 その頃ローマの将軍ポンペイウスはセレウコス朝を滅ぼし、シリアをローマの属州にしてしまいました。彼はローマの元老院の支持を得ないまま、不当にも執政官の地位に就いてしまいますが、民衆は彼を認め特殊な軍事司令官に何度も任命されました。ポンペイウスはアルメニア諸国もローマの手の内に収めオリエントで輝かしい功績を残しました。ユダヤでの王位を巡る争いはポンペイウスに介入するきっかけを与えてしまいました。ヒルカノス2世とアリストブロス2世もポンペイウスに支持を求め、彼や補佐官の歓心を買おうとしましたが、両派のどちらでもない第三の代表団がダマスコでポンペイウスと面会を果たし無条件で2人の王の廃位を申し入れました。最終的にポンペイウスはヒルカノス2世を選び、神殿に立てこもったアリストブロス2世軍を包囲し、占領しました。アリストブロス2世と息子たちは捕らえられローマに連行されてしまいました。
 ヒルカノス2世は属領の「民事統治」という形で表面上は独立国の支配者となりましたが、ユダヤは完全にローマの支配化に入り、属州シリアの一部として重税をかけられることになりました。



  しかし、ローマでのポンペイウスの無理な支配は長くは続かず、紀元前48年、彼はファルサロの戦いで宿敵ユリウス・カエサル(シ−ザー)に敗北します。カエサルはローマの終身独裁官になり、ヒルカノス2世らのオリエント同盟軍の援護によってエジプトの政情を安定させ、クレオパトラ7世を王位につけました。
 カエサルは味方についたヒルカノス2世を優遇し、世襲大祭司と民族指導者の権限を与え領地の一部を返還しました。しかし、ユダヤの実権はヒルカノス2世にはなく、「ローマの友人であり味方であるユダヤ」との名目で条約が取り交わされました。ローマはユダヤ人の宗教に基づく生活を妨害しないこと、ユダヤの各地方にはローマの総督を置くことが主な条約でした。この知恵を絞った政策「ユダヤ人の心を傷つけることなくローマの支配を行った」は、ユダヤ人たちに高く評価されました。紀元前44年にカエサルが暗殺されると、ローマのユダヤ人は幾夜にもわたって次々とカエサルの火葬台に集まり、その死を悼んだということです。



 カエサルの後、彼の甥にあたるオクタヴィアヌスがカエサル死後の内乱を収拾し、ローマを統一します。オクタヴィアヌスは名前をアウグストゥスに改め、実質的には独裁者として実権を握っていきますが、あくまでも共和制支持者という名目を貫き、気を配って体制を整え、紀元前14年に亡くなるまでに、一大帝国を築きあげることとなります。彼は全軍と諸州の半分を直接支配下に置きましたが、残りの州は貴族院のものたちに分け、また平民たちにも保護を与えて管理しました。
 ローマは軍事的に多大な強さを誇った為、非情な征服者とも言われましたが、協調と合意により運営されていました。新しい国を自分たちの帝国に組み入れる時も、ローマの市民権を与え、その地方の特色をそのまま生かした自由な体制を保ち、建造物や道路・上下水道などのをインフラを行ったため、属州の民族もことごとくローマへの忠誠を守りました。
紀元1世紀の初めまでには、北部イタリア、スペイン、ガリア(今のフランス・ドイツ)今の東ヨーロッパ、トルコ、エジプトから大西洋に至る北アフリカ等々、世界史において他にローマほど広域に渡って、しかも長い期間太平に時代を築いた国は後にも先にもありません。
(※詳しくは「ローマ人の物語」塩野七生を参照下さい)

   

 
 ユダヤの総支配人となったアンテパテルの息子の一人であるヘロデはそんな時代に頭角を現していきます。


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