September






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「ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。 あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、エルサレムにいますイスラエルの神、主の神殿を建てるために、ユダのエルサレムに上って行くがよい。神が共にいてくださるように。 すべての残りの者には、どこに寄留している者にも、その所の人々は銀、金、家財、家畜、エルサレムの神殿への随意の献げ物を持たせるようにせよ。」
(エズラ記1章 2節〜4節)
 メディア人を征服したペルシアのキュロスが、BC539年にバビロンを占領したことにより、ユダヤ人の長い捕囚は終焉を告げました。ユダヤ民族はいま、自由にエルサレムに戻ることができました。しかしただちに帰国した者の数はごく少数だったと思われます。バビロン陥落は、ユダヤ教の発展の上での一大転換期であります。ヤハウェとイスラエルとの契約が新たになされることにより、この民族が贖われたことになりました。バビロンの都から帰還した捕囚の民は、神殿再建を開始し、それとともに、のちに復興ユダヤ教へと発展する、純潔とモーセの律法を中心とする信仰を確立しました。



 バビロンの退潮へといたる出来事の余韻は、何世紀を経たのちにも、ダニエル書の中に聞きとれます。そこではバビロニア人、メディア人、ペルシア人による帝国が、幻想的な獣にたとえられています。バビロンは鷲の翼を持つ獅子として描かれています。「見ていると、その翼は引き抜かれ・・」(ダニエル書7:4)。バビロンがその末期ペルシア勢力に敗北したことについての証言は、バビロニアの資料によってつたえられていますが、それらのうちにはキュロスの勝利後に編集し直され彼に有利なように偏っている証言もあります。
       
 しかしバビロンの衰退はその約20年以前、BC562年のネブカドネツァル王の死に始まっていました。彼はアッシリア滅亡後その境界を西に小アジアのハリュス川まで拡げたメディア人と、友好関係を維持していたようであります。しかしながら、ネブカドネツァルがバビロンの都の北に防塁を築いたことは、その治世の終わりにかけて彼がメディア人の意図に疑念を抱いていたことを示しています。ネブカドネツァルの晩年についてはほとんど知られていないが、彼の死後7年間に3人の王が入れかわり、BC555年にナボニドスが王位につきました。

「キュロスの円筒印章」


 歴史的には、ナボニドスの王政にはかなりの反対者がいて、キュロスが万民に歓迎されたためバビロンは争うことなく陥落したと言われています。しかし実のところ、この見解にはほとんど裏付けがありません。BC539年の10月にオピスでペルシア人がバビロニア人を攻撃したときには、確かに激しい戦闘があったものと思われます。
ペルシア人はつづいてシッパルを取り、2日後にはバビロンに入城しました。「バビロニア年代記」によれば戦闘なしにであります。しかしキュロス自身がバビロニアの都に入城するまでに、2週間の遅れがあったようです。この期間中、強力な軍隊が駐留していました。「盾を持つ軍勢が・・エサギラの門を取り囲んでいた」。おそらくこれは、キュロスがバビロンに安全に入城する前に、対処すべき武力抵抗があったことを示唆するものでありましょう。



 バビロニア人の中に、ある種の不満が存在していた証拠もあります。これは、ナボニドスがその治世の初期に多くの行政改革を導入したことによるものかも知れません。この改革は、王室の行政官を神殿の聖職階級組織の中に組み込むことを含み、その結果、神殿財政が王室によって実質的に支配されることを意味していました。この措置によって減収になった人びと、つまり神殿書記たちは、王に不平を抱き、キュロスを支持したのかも知れません。確かに、バビロン陥落時の親ペルシア的宣伝は、文書編集にたずさわっていた神殿書記たちから出たものであるようです。
 理由は不明ですが、ナボニドスはその治世の末期10年を、アラビアのテマのオアシスで過ごしました。彼のこの不可解な出発の直前に、キュロスはメディア人を攻撃し、近東の大半に及ぷ支配権拡大に乗り出していました。バビロンの都の陥落によって、今やキュロスはユダ属州を含むバビロニア全領域の支配者となったのです。

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