ガリラヤ湖の北西の岸にあるカファルナウムは、ガリラヤの国王のヘロデ・アンテパスの彼の異母兄弟のヘロデ・ピリポの領土の境界に位置しており、政治的・経済的にとても重要な町でありました。この時代、ユダヤ人(=イスラエル人)はローマ帝国に支配されていて、イエスがいたガリラヤという地方にもローマ軍が駐留していました。このカファルナウムはそのローマ軍の百人隊長の駐屯地でもあったのです。
イエスが山の上での説教を終えてカファルナウムに移動なさったときのことです。ユダヤの長老数人がイエスを訪ねて来ました。
「イエスさま、この町に住んでいる百人隊長に依頼されてお願いにまいりました。あの方の家の使用人が重い病気にかかり、今にも死にそうなのです。どうか助けて下さい。」
百人隊長が大事な部下のためなのに、なぜ自分で行かなかったのかというと、「自分は支配者であるローマ人だ。支配される側のユダヤ人を迎えになど、行けるものか」という優越意識からではなく、「自分は外国人であるから、イエスさまを直接迎えに行くのは失礼」という謙遜な気持ちからだったのです。
|
|
この長老たちも、「なんでわしらが、外国人の使い走りを」などとは考えず、イエスのところに行くと「あの隊長はすばらしい人で、願いをかなえていただくのにふさわしい人です。外国人ですが、わたしたちユダヤ人を愛して、自分の財産でわたしたちの町に会堂を建ててくれたのです」と熱心にお願いしたのです。この会堂というのは、ユダヤ人が礼拝をする場所です。支配地域の文化や宗教に比較的寛容だったローマ帝国とはいえ、ローマ人自身は皇帝を神として礼拝していました。被支配地域の宗教施設を私費で建ててやるなど、異例のことだったでしょうし、少なくとも帝国の軍人がすることではありませんでした。
イエスは、長老たちのとりなしを聞いてすぐに隊長の家に向かいました。隊長が本当の神様を信じていること、そして部下のためなら被支配民に頭を下げられるほど愛のある人であることが、長老たちの話しでわかったからです。
|
|
イエスが百人隊長の家に近づいた時、百人隊長は友人達をイエスのところに遣わしてこのように言いました。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」
隊長は「イエスさまは聖なるおかたで、罪深い自分が招いてよいかたではない」と考え、しかも「来ていただかなくても、イエスさまはひとことの言葉でわたしの部下を治すことが確かにできる」と確信していたのです。
イエスはこれを聞いて、その謙遜な姿勢、そしてその信仰に、「なんという立派な信仰だろうか、わたしの言葉だけで病気が治ると信じられるとは。イスラエルの中でさえこの外国人のような信仰は見たことがない」と言って、感心し驚いたのです。そして隊長の信仰の通り、イエスは隊長の家に入らず本人にも会わずに、その部下の病気を治しました。
|
|
この百人隊長は軍組織の中で生きてきて、"従わせる力を持った権威ある言葉"というものを、よく知っていました。上官から命じられれば隊長自身が従うように、隊長が配下の兵隊に「行け」と言えば行き、「来い」と言えば来て、「これをしろ」と言えばそのとおりに従います。隊長の命令が、配下の兵隊に対して権威があるからです。同じように、イエスが病気に「出ていけ」と言えば出ていく、イエスが病人に「治れ」と言えば治る、それほどの権威がイエスにあることを隊長は受け入れたのです。
今まで、イエスの所に助けを求めた人々は、イエスに来ていただき、イエスにさわってもらうことを願いました。そうすればいやされると言う信仰でした。しかし、この百人隊長は、わざわざ、イエスが来なくても、イエスの命令だけでしもべはいやされると信じたのです。そこに、イエスは、イスラエルの中にも見たことの無い立派な信仰であるとこの百人隊長の信仰をほめたのです。
|
|
新約聖書には百人隊長が6人ほど登場しますが、彼ら軍人は権威というものに敏感だったからでしょうか、そのうち4人までもイエスを信じるのです。 |
|
|