October

  

 




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「 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。 」

(マタイによる福音書2章16節)



 ユダヤ総支配人となったアンテパテルには4人の息子がおりました。その一人がヘロデです。ヘロデはエドムの出身で、母キュプロスはナバテアと言う所の王族の出身とされています。ヘロデは祖父の代からユダヤ教を信仰していたらしく割礼も受けていました。ヘロデの父アンテパテルは親ローマ派で、ローマ人たちと同じような生活様式を好んでいたようです。
 ヘロデは前48年、ガリラヤの統治者に任命されましたが、あまりに残虐なため。エルサレムの長老会は彼に召喚命令を出しました。ヘロデはその命令を無視してシリア地方に一時的に逃亡したのですが、父アンテパテルが暗殺されると、兄ファサエルと共に、当時オリエントの支配者だったマルクス・アントニウスに取り入って、ユダヤの分封支配者の称号を得ることに成功しました。

 
若い時のヘロデ大王
ヘロデ王も父の影響で親ローマ派だった為、 ローマへ旅立つと、そこでオクタヴィアヌス(後のローマ皇帝アウグストゥス)によってユダヤの王位に就くことを認められたのです。また、ヘロデはヒルカノス2世の孫であるマリアンメを妻としていました。この結婚によって、ヘロデは民族的にも王となる正当性を得ることが出来たのです。
 ローマ軍の助けを得たヘロデのユダヤへの攻撃は、当初は苦戦続きでしたが、前37年ついにエルサレムを手中に収めることに成功しました。

 ヘロデは外政において、ローマの内乱などで混迷をきわめる国際政治の渦中を外交手腕を発揮して巧みに切り抜けて行きました。ローマの初代皇帝となったオクタヴィアヌス改めアウグストゥスも、ヘロデがユダヤ王国を安定させたことによって、自らの手を煩わすことなくシリアのエジプトの国境を守ることが出来たので、ヘロデを信頼しておりました。
 内政でもエルサレムの神殿を始め水路、都市、貿易港カイサリア、要塞、ヘロディオンなど様々な土木建築に着手しました。
ヘロディウムの要塞

地中海沿岸には海港都市カイサリアを建設し、アンティオキア、ラオディケア、トリポリ、ダマスコ、ベイルートなど多くのアジア諸国の都市でも大建造物を建築しました。
 また、国内でもサマリアをローマ風の町に造り変え、アウグストゥス帝に敬意を表して「セバステ(皇帝を表すギリシャ名)」と改名して、皇帝に捧げる神殿を建築し、エリコやエルサレムにまでローマ式の劇場や競技場を造らせました。
 要塞の建造にも力を入れ、ベツレヘムの南に、ヘロディウム、エリコの近くにはキプロス(母キュプロスの名)の要塞、エルサレムの北西のパリスの要塞を造り変えマルクス・アントニウスにちなんで、マルクスの要塞とし、宮殿のような内装を施したと言われています。

ですが、何と言っても建設者ヘロデの最大の事業は神殿の建設にあります。ハスモン朝時代の神殿は、ヘロデの目から見るとあまりに質素なものでした。これを遼に大規模な神殿にするために、まず地形そのものを改造したのです。城壁で囲まれた広い庭を造り、そこは異教徒を含め全ての人に開放されました。内宮には入り口に特別な清めを設け、汚れ無きユダヤ人のみが入れるようになっていました。神殿の内部はソロモン王の時代と同じように、3つの部分に分け、金の装飾を施した白い大理石で造られており、門のうち9つは金銀で覆われまばゆいばかりでした。神殿の西側の壁は今も残っており、「嘆きの壁」として全世界に知られています。
ヘロデ王時代の水道橋
パレスチナ地方カエサリアにあるもので、
30キロ離れたカルメル山から送水していた。

水の供給にも力を入れ、各地に大きな水道橋や、細かに導水管を敷設して、降水量の少ないこの地方を潤わせたということです。

ただ、政策がローマよりで、インフラ整備のために重税を課し続けた事、ユダヤ人でなかったこともあって国内の人々からの支持は低かったようです。

また、十人の妃が産んだ息子たちが、そろいもそろって野心家で、宮廷内では陰謀が渦巻いていました。ヘロデは猜疑心が強く、それらを容赦しませんでした。妹サロメの二人の夫、愛妻マリアンメ、マリアンメの母アレクサンドラの処刑、ヘロデに刃向うハスモン家の人間の殺害、2人の息子、アレクサンドロスとアリストプロスと先妻ドリスの子アンティパトロスとの勢力争いのうえの扼殺、ヘロデの弟フェロラスをアンティパトロスが毒殺など、また神殿の玄関でローマのワシの軍旗を破り捨てた二人の学者も生きながら焼き殺しました。

 三人の博士来訪
 ある時、遠いシリアの国から三人の学者(実際は三人ではなく砂漠を越えてきたのですから数十名のキャラバンを組んでいたと考えられます)が王宮を訪ねてきました。「ユダヤの王」として生まれた方を探していると言うのです。ヘロデの猜疑心はふつふつと沸きあがり、いつかその人が自分の王位を狙いに来るのではと考え、ヘロデの心は休まることがありませんでした。ヘロデは問題の「ユダヤ人の王」がベツヘレムに生まれたことをつきとめ、ベツヘレム周辺の2歳以下の男の子を皆殺しにしてしまいました。これが後世まで悪王として語りつがれていく、幼児虐殺なのです。この時、イエスとその家族は天使に促されるままにエジプトへと逃れ、ヘロデが没するまでそちらで過ごしていたといいます。

幼児虐殺
 後継者と決めていたアンティパトロスは甥や姪たちが自分に復讐してくるのを恐れヘロデの死を願っていましたが、その親子の確執は最終的にローマの宮廷まで巻き込んでしまいました。ヘロデはアンティパトロスのことをアウグストゥスに報告し、その結果アンティパトロスに対する一切の処断をまかせるとのローマ側の言質を得ました。ただ、アウグストゥスはヘロデと息子たちとの度重なる抗争にあきれはて、「余はヘロデのヒュイオス(息子)であるよりヘロデのヒュス(豚)になりたい」と語ったと言われています。 それとほぼ同時に、ヘロデは病に倒れました。ヘロデがこれまでにアウグストゥス神殿を造る等ユダヤの律法を逸脱することが多かったのに不満をたぎらせていた一部の人々が反乱を起こしました。これは鎮圧されたものの、ヘロデの病の苦しみは大変なもので、苦痛から逃れるために自殺をはかる有り様でした。自殺未遂の騒ぎを獄中で聞いたアンティパトロスは獄卒に金をやるから解放してくれと頼んだが、獄卒長はただちにヘロデのもとへと注進にかけつけた。ヘロデは最後の力を振り絞ってアンティパトロスの処刑を命令しました。ヘロデが死んだのはその5日後のことです。
 

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