November

 




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「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」
(イザヤ書7章14節)

 

 ナザレのイエスの誕生に先立つ数十年の間に、パレスチナには様々な文化と民族が入り乱れておりました。ローマ支配下におかれたパレスチナ200万の人々は、地理と宗教、あるいは政治によって分断されておりました。一方では農夫が原始的なすきで畑を耕し、一方ではローマ文明のさまざまな恩恵を享受する都会的な町があり、また、聖都エルサレムではユダヤ人の祭司がイスラエルの神に生贄を捧げ、近くのセバステでは異教の祭司がローマの神ジュピターのために儀式を執り行っていると言った状態でした。
 パレスチナの人口はユダヤ人がその半数を占め、その他はギリシャ人、ローマ人、シリア人、エジプト人、アラビア人、ペルシア人、バビロニア人などでありました。殆どのユダヤ人は、ガリラヤやペレア、ユダヤの田園地帯、そして聖都エルサレムに住んでいましたが、異端とされていたユダヤ教分派のサマリア人とエドム人は主として田園地帯に住んでいました。ユダヤ人は外国人支配者たちを軽蔑し、異教文化が祖国に蔓延っていることを不快に思っていました。
 エルサレムの神殿は依然として、ユダヤ人らの生活の中心であったので彼らの生活は、表面的には変化がわかりませんでした。しかし、ヘロデ王の奢侈によって国は疲弊し、民衆の心は離反しつつありました。多くの人々が心から求めているのは、ローマの支配から解放してくれる指導者であったのです。この世の終わりが近いとい信じる者は少なくなかったし、迫り来る終末のときを知らせ、神の審判を告知する為のメシア(救世主)の到来を誰もが待ちかねていたのでした。
 何世紀もの間、イスラエルの預言者たちは、主がユダヤの民を異教の支配者から解放し、全世界に神の国を打ち立てる日の到来を予告して来ました。その時神は救い主をこの世に送り、現在の堕落した世界を終焉させ、永遠の楽園をもたらせ、死者は蘇り、この世での行いが裁かれ、悪人は罰せられるが、善人は新しい神の国で永遠の生命を与えられるとの予言です。
 大部分の人々にとって、どのように神の国が現れるのかは明確ではなく、死なずに昇天したエリヤがこの世に戻ってきて神の国の到来を告げると考える者もいれば、主が死者であるメシアをこの世に送り愛に満ちた統治を行うと信ずる者もいました。そして、このメシアとは国民の敬愛の的であったイスラエル王ダビデの子孫だと考えておりました。
 
 ダニエル書には「夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。 」(ダニエル書7章13節)と書かれていますが、このメシア到来の描写に民衆はかなり影響されていたようであります。
 イザヤ書では「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。(中略)屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。 」イザヤ書53章1〜7節)と記されていますが、人々はこの虐げられたメシアよりも輝かしくイスラエルの民を救うメシアを夢に見ていたのでありましょう。
 神がイエスをこの世に下されたのは、こんな時代背景の中だったのです。

 

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