November



 

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「エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。 エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。」
(ネヘミヤ記8章 5節〜6節)


 紀元前546年までに新生ペルシア帝国は西へ拡張してエ一ゲ海にまで達しました。クロス王は北と東の地歩を固めたのち紀元前539年には南進し、数か月後に、勝利を収めたクロスが首都バビロンヘ入城すると、市民は彼を解放者として歓迎しました。
 当初からクロスは賢明な支配者でありました。彼は、宗教上の習慣に干渉しないと宣言し、人々の願望どおりに社会的・政治的改革を行なうと約束したのです。そして、紀元前538年に全西アジアを支配下におくと、回復の勅令を出しました。この勅令は、バビロニア捕囚のユダヤ人の帰国を認め、エルサレムの神殿を王室の費用で再建することを指図していました。クロスはダビデ家につながる貴族のセシバザルを任命し、準独立国としてユダを支配させました。
 神殿の再建は帰還後ただちに始めたのですが、計画はやがて行き詰ってしまいました。帰還者がもどってきた地は、いまだに敗北の傷跡が生々しく荒れ果ており、土地は何年も肥料を施さずに放置されていたために、収穫もままならず、帰還者の多くは窮乏に耐えねばなりませんでした。それに加えて、帰還者は隣人の敵意とも戦う必要に迫られていました。とりわけ激しい反感を示したのはサマリア人で、他にユダを去らなかったユダヤ人も、帰還者が祖先からの土地の所有権を主張するのは愉快なことではなかったのです。
 

 


 そのような困難な状況のなかで、恨みや不信が原因で暴力沙汰が相次ぎ、神殿再建の夢もイスラエル連帯の希望も消え去ってしまったのです。主はなぜ、苦しんでいる我々のためになんらかの行動を示されないのであろうか、と意気阻喪した者たちは自問しました。
 苦悶した指導者たちが、神殿建設の作業を再開したのは、紀元前520年のことで、パレスチナの外からの政治的展開のおかげでありました。バビロニア捕囚から最初の帰還が行なわれてから、18年後のことです。紀元前522年にペルシアの王位は軍の将校ダリヨス(ダリウス)によって奪取され、その後2年の間、ペルシア帝国の各地で反乱が続きました。
 パレスチナの預言者たちはそのなかにハカイとセカリヤがいたのですが、彼らはこのような出来事を、新時代到来の徴と考えました。そしてこの考えは、ただちに一般に浸透し、不満を蓄積していた追従者たちは熱心に神殿の再建に取り組み始めました。紀元前515年3月に、ついに神殿が完成し、感謝と祝いのうちに奉献式が催されたと記されています。




 
     
 その後70年間のユダヤ人社会の様子は、あまり詳しくはわかっていませんが、新時代は実現を見ることができずダリヨスによる支配が続きます。が、ユダの人口は新たな帰還者を迎え入れて着実に増え続け、紀元前5世紀の半ばにはほぽ倍増しました。
当時、エルサレムの大祭司と、サマリアに置かれたペルシア政府の代表との間に意見の食い違いがあり、人々の間でなおも多くの重要な問題について意見が分かれていました。さらにユダが依然として独立をかちえることができないために、主に対する信仰も次第に稀薄になっていったのです。神殿においては、ときには儀式上の清めの律法が守られず、神殿納付税を怠ることが当然になったために、多くの祭司は収入もなく聖職を捨てて他に仕事を捜さねばなりませんでした。こうして復活するはずであったユダの社会は、倒壊寸前の様相を呈しているかに見えました。



 この危急存亡のときにあって、ユダの歴史の舞台に登場した卓越した人物が2人いました。エズラとネヘミヤであります。紀元前5世紀の第3四半紀に現われたこの2人は、衰退したユダの生活を劇的に一変させたのです。
 ネヘミヤは、紀元前445年頃、ペルシア王アルタシャスタ(アルタクセルクセス)1世の時代に、活動を開始しました。エルサレムでは、ユダヤ人が城壁の建て直しにかかっていました。サマリア駐在のペルシアの役人は、ユダの持つ権限を日頃から疎ましく感じていたので、ユダヤ人が王に対する反乱を計画している、と報告してしまいました。アルタシャスタは即座に工事の中止を命じましたが、王の側近の1人であったネヘミヤは敢然と異議を唱えました。ネヘミヤはペルシア王に忠誠を誓う一方で、彼自身ユダヤ人であるため、再建に身を砕くユダヤ人に強く同情していたので、王に、エルサレムで城壁の工事を監督したいと申し出ました。
 その結果エルサレムの城壁は、聖書によると、なんと52日で完成したと記されています。これに感服したアルタシャスタは、ユダを自治州とし、ネヘミヤを総督に任命しました。



 ネヘミヤがまず力を注いだのは、ユダの富と政治権力における極端な不均衡の是正でありました。さらに彼は人々に安息日と結婚の律法を遵守させ、神殿の祭司を必要なだけそろえるとともに、年ごとの税金を怠りなく支払うことを求めました。
 この国家再興のときに、偉大な学者エズラがユダに現われたのです。彼はバビロンにおけるユダヤ社会の中心人物であり、アルタシャスタ2世から、モーセの律法をユダに再び広めよとの命を受けていました。
 エズラは、長い捕囚生活の間に、書物としてまとめたトーラー(モーセ五書)の巻物を携えてきました。ネヘミヤ記8章には、エズラが初めてエルサレムに姿を現わしたときの劇的な様子が描かれています。広場に集まったすべての市民を前にした彼が、朝から昼まで休むことなく律法の書を読み上げると、人々は感涙にむせんだと記されています。
エズラがまず手をつけたことは、ユダの男子すべてに異教徒の妻を離縁させ、将来も異教徒とは結婚しないと誓わせることでありました。この思いきった処置はかなりの抵抗にあいましたが、エズラの見解にしたがえば、異教徒との結婚こそがパレスチナにいるユダヤ人の宗教と民族自体を、危うくしている元凶なのだということでした。徹底した彼のこの指令はいつしかほとんどの民衆に受け入れられました。

 



 それに続く一連の改革で、エズラは安息日と食物規定を遵守するように求め、7年ごとに土地の耕作と借金の取り立てを中止させ、神殿維持の費用として年に半シケルの税を設けました。このときから、イスラエルはモーセの律法を基盤とした社会として存在するようになったのであります。そしてユダヤ人であるかどうかということは、単に国籍の問題ではなく、モーセの教えに従っているかどうかで区別されるようになったのです。
 しかし残念なことに、この頃、エルサレムとサマリアの関係が悪化の一途をたどったことは確かでありましょう。ある程度の社会的、商業的な接触はもったにしても、神学上の食い違いは大きく、両者は相容れないものであったからです。サマリア人たちはトーラーのみを聖なるものとして尊重し、ユダの人々が敬意を払っていた預言書や口伝の類には目もくれませんでした。一方、ユダの人々はユダの人々でサマリア人を異端であるとして非難し、神殿の礼拝から締め出してしまいました。そのためサマリア人は独自の神殿をゲリジム山に建立したのです。この後この両者は相容れることが無く、イエスの時代になっても、ユダの人はサマリヤ人を忌み嫌っていたと聖書は記しています。



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