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「不信心で、人類のうち最も汚れた者よ、あなたは天の子らの上に手を振り上げ、むなしい望みを掲げてしたいほうだいのことをしているが、思い上がりも程々にしたらどうか。 」
(マカバイ記二 7章 34節)


 旧約聖書の物語は終わりに近づいています。旧約の時代はユダヤ教でしたが、イエス・キリストがこの世に遣わされたことで新約聖書の時代が始まるのです。イエス・キリストの教えは万人への「神の愛」でした。そして、イエスが復活なされたことで、それまでの宗教は大きく変わってくるのです。
旧約聖書の中では「復活」というものはほとんど語られていません。モーセ五書には明確に「復活」について述べる箇所はないようです。それまでのイスラエル民族の考えでは、「人は死ぬと先祖の列に加えられる。それはシェオール(陰府)と呼ばれるところで、そこは生きている人との関わりも神との関わりもなくなる静寂の場」というものだったようです。
 旧約聖書の中で「復活」ということがはっきりと意識されるようになるのは、ダニエル書12章とマカバイ記二7章です(マカバイ記はヘブライ語聖書には含まれていません)。
 これらの箇所が書かれた時代は、紀元前2世紀の迫害と殉教という時代でした。紀元前4世紀、ギリシャのアレクサンドロス大王が築いた広大な支配地域には、4つのヘレニズム(ギリシャ人の)帝国ができました。パレスチナは初め、エジプトのプトレマイオス王朝の支配を受けましたが、後にシリアのセレウコス王朝が支配するようになりました。そして、そのセレウコス王朝のアンティオコス4世エピファネスという王のとき、ユダヤ人に対する激しい宗教的迫害が起こりました。エルサレムの神殿にはギリシャの神々の像が持ち込まれ、ユダヤ人は先祖伝来の律法に従って生きることを禁じられました。「神に忠実に生きようとすればするほど、この世では苦しみを受け、中には殺されていく人もいる」この厳しい状況の中で「死を越えて神が救いを与えてくださるという希望=復活の希望」が語り始められたのです。



イスラエルのサドカイ派が復活を認めなかったのは、彼らが「モーセ五書」のみを正典と考えていたから、というだけではありません。彼らがこの世で満ち足りていたからです。たとえローマの支配下にあって政治的に抑えられれたとしても、神殿の権威や富に結びついていたサドカイ派にとって今の生活は悪くなかったのです。彼らにとって、神殿の祭儀の中で正しい犠牲をささげていれば神との関係は十分で、厳しい生活の中にあって死を越えて神に希望する人々とは立場が全く違っていたのです。
 一方のイエス・キリストは、貧しい人々とともに生き、苦しむ人々の姿を見つめてきました。彼らの苦しみと希望をイエス・キリストはご自分の中に取り込んで一緒に苦しんでいかれたのです。マカバイ記ではサドカイ派の宗教家を「不信心で、人類のうち最も汚れた者よ、あなたは天の子らの上に手を振り上げ、むなしい望みを掲げてしたいほうだいのことをしているが、思い上がりも程々にしたらどうか。 」と厳しく非難しています。
 


イエスが愛し労わった人々にとって、イエス・キリストの復活ということは死後の世界に対する興味や、宗教家の議論の問題であるはずはなく、どう考えてもこの世では今の苦しみと絶望的な未来しかないと感じられるときに、なおも神に信頼し、人を愛し、希望を持って生きることができるかどうかという最後の生きる望みだったのではないでしょうか。

 

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