May



 

sun mon tue wed thu fri sat
* * * * 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 *



「あなたは彼らにこの言葉を語りなさい。「わたしの目は夜も昼も涙を流し/とどまることがない。娘なるわが民は破滅し/その傷はあまりにも重い。野に出て見れば、見よ、剣に刺された者。町に入って見れば、見よ、飢えに苦しむ者。預言者も祭司も見知らぬ地にさまよって行く。」 」
(エレミヤ書 14章 17〜18節)



 

 預言者エレミヤはエルサレムの北東3キロほどの広い丘の上に位置した、アナトテ村で生まれました。この辺りはヨシュアの時代から祭司の住居と定められ、村の祭司たちはモーセの教えを厳格に遵守することを旨としていました。エレミヤの父ヒルキヤも祭司であり、エレミヤはその父からモーセの契約を崇めるよう厳しく躾けられてきました。ここの人達は、当時エルサレムで権勢を誇っている人々よりも、自分たちのほうが歴史的に見て正統な伝統を受け継いでいるという確固たる自負と信念を持っていました。エレミヤは信心深い家庭に育ったおかげで、首都エルサレムの悪徳に染まることはありませんでした。
 マナセ王が他界したときには彼はまだ幼児でありましたが、長く続いた統治の腐敗ぶりは王の没後も変わることなく、エレミヤも成長するにつれてそれに気づくようになりました。数世代を経た当時も、依然としてユダ王国はアッシりアの属国であり、その国の神々への崇拝を義務づけられていました。しかしマナセは、アッシリアの宗教に形だけの敬意を払っていたのではなく、主の崇拝を禁じはしませんでしたが、地方にある異教の社を再開し、異教の祭壇を安置したあげくに、人身御供という忌むべき習慣さえも復活させました。また彼はエルサレムの神殿の中に、金星にちなんだアッシリアの愛と戦争の女神イシュタルの像を置きました。
王の行ないに公然と反対した者は処刑されるか、地下に潜入するしかありませんでした。
 

その後ユダヤでは、紀元前640年に王マナセが没し、2年も経ぬうちに後継者である息子アモンが殺され、アモンの息子で8歳になるヨシヤが即位するという動乱の時期でありました。ヨシヤが成長したころ、アッシリアの権勢は衰退し、バビロニアなどの属国が反抗的姿勢を示すにいたって、ヨシヤも敢然と独立を主張しました。紀元前628年頃には、ヨシヤはアッシリアの王に逆らって大がかりな宗教改革に着手し、ほとんど単独でユダの宗教から異教の影響を払拭しようとしました。ヨシヤの兵士たちはユダのいたるところで異教の社を破壊し、神殿からは偶像が一掃され、異教の儀式を行なった祭司や神殿娼婦、妖術を行なう者たちが処刑されました。
 エレミヤが初めて自分の使命を認識したのは、おそらく彼が18歳のころ、紀元前627年のことと思われます。のちにこの時のことを書き記して、「主の言葉がわたしに臨んで言う、『わたしはあなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした』。その時わたしは言った、『ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません』。しかし主はわたしに言われた、『あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである』と主は仰せられる。」

 同時に、神様はユダ王国の差し迫った災いをも彼に告げました。「災が北から起って、この地に住むすべての者の上に臨む。」神様の声はまたエレミヤに、迫害にあってもくじけないようにと戒めました。さらにユダ王国は滅亡に直面し、家族とは死別するであろうから妻をめとらぬようにと命じたのです。
 それまでの預言者同様にエレミヤも、市場や神殿の中庭で説教をしました。神様の言葉どおりエルサレムで滅亡の預言活動を始めたエレミヤの心は重苦しいものでありました。丈の長い、身体にぴったりと合った白亜麻布の祭司の服をまとい、「主の言葉を聞け」と訴えたのです。エレミヤは罵倒と嘲笑にあっても、人を非難するのをやめなかったので、エルサレムでもうるさい人として評判になりました。



 王ヨシヤの宗教復興への努力は、モーセの契約の意味を詳細に説いた1冊の古い法書(現在「申命記」と呼ばれている)巻物の主要部分が紀元前622年頃に発見されるに及んで、さらに勢いを得ました。すべての生賛の儀式がエルサレムの神殿で行なわれるようになり、また、地方の祭司は首都の祭司集団への加入を勧められましたが、しかしながら、その大部分は参加を拒否してしまったのです。結局、このような改革は民衆の支持を得られませんでした。
 一方アッシリア帝国は崩壊しつつありました。紀元前612年にバビロニアは、アッシリアの壮大な首都ニネベを破壊しましたが、それはアッシリアの支配力が事実上失われたことを意味しました。1世紀以上に渡って、アッシリアはバビロニア南部諸国を平定しようと人材、資材をつぎ込んできましたが、バビロニアの勢力拡大は近東全域で著しく、エジプトからの援軍もユダヤのヨシヤの捨て身の攻撃に阻まれ、とうとうアッシリア帝国は永遠に消え去ったのでした。


  Back