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babel03


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彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、 このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、 また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。
創世記 11章4〜9節

 聖書は、ノアの洪水ののち、すべての人ぴとがともに生活し、同じ言語を話していたと記しています。東方を遊牧生活をして移動をつづけているうちに人びとは南メソポタミアの平原に行き着き、そこに定住する決意をしました。そして町の建設に取り掛かりました。
 「石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた」(創世記11:3)。 
 彼らは「天まで届く塔のある町」を築きたいと思ったのです。塔は、太陽、月および星の崇拝のために設計されました。人類は、神自身の代わりに神の生成を崇拝することに決めました。そして、それは永遠の記念碑となり、また「全地に散らされることのないようにしよう」(創世記11:4)、という協力の願いの象徴になるはずでした。
 しかし神ヤハウェには、ほかの計画がありました。彼らの傲慢を快く思わず、再ぴ相互に理解することができないように言語を混乱させることにしました。神は「彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた」(創世記11:8)。
その結果、町と塔は打ち捨てられ、廃嘘となりました。
 その後、その町はバベル(それは混乱を意味する)と呼ばれました。「主がそこで全地の言葉を混乱(バーラル)させ」たからです。
 この話は人類が神ヤハウェの至高性に挑むことの無意味さを物語るものです。そしてこの町というのは明らかにバビロンであります。「バベル」とはヘブライ語で「神の門」を意味し、それと聖書記者が「混乱させる」という意味の「バーラル(balal)」という言葉とをうまく掛けた名前になっています。この物語の背景には、数々の異なる言語の存在と、バビロニアの平原にそびえ立つジッグラットと呼ばれる奇怪な寺院を結びつけて説明しようという意図が見られます。
 シュメール人は紀元前3000年に最初のジッグラットを建てました。頂上に神殿が築かれたこれらの巨大な階段状の塔は、人ぴとが神々と交わることのできる神聖な山を表わしていました。最も保存状態のよいメソポタミアのウルのジッグラットは月の神に捧げられた寺院です。バビロンのエテメナンキと呼ばれる大ジッグラットは、エサギラという神殿群の一部で、おそらく「バベルの塔」の物語を生み出すきっかけとなっていました。その起源は前20世紀初頭、ハンムラビがバビロンと、その神マルドゥクの絶対的地位を確立した時期にさかのぼります。
 バベルの物語は、マルドゥクが混沌の勢力を打ち破ったのちに、そのことに感謝する神々が、彼のためにバビロンとエサギラの建設を受けもつという、バビロニアの創造叙事詩と呼応します。伝統に従い、神々はまず神聖なれんがを用意します。
「一年間彼らはれんがを作り、二年目になったときそれらを積み上げ、そしてエサギラの神殿は高くそぴえ立った」。
 バベルの塔の伝説は正確にバビロニアの建築法を反映しています。石がなかったので、泥が用いられて、焼き固めたり、日干しにしてれんがを作りました。そして地中よりしみ出してくるビチューメン(天然アスファルト)がしっくいの役を果たしました。王の仕事のひとつに、神殿のための最初のれんがを作るということがあります。これは神々のための家を建て、神々への配慮をする王の義務を象徴するものであります。
 バベルの塔の話がヘブライ人の民間伝承の一部になったのは、紀元前2000年期の終わりごろで、ハンムラビ王朝の崩壊後のことでしょう。そのころバビロンのジッグラットは実際、廃墟の状態であったかも知れません。しかしその後、バビロンに捕囚されたユダヤ人のなかには、ネブカドネッァルによって修復されたこの巨大な建築物を見た者もいたことでしょう。
 ギリシアの歴史家ヘロドトスは、この神秘のジッグラットについて、彼独自の話を残しています。この歴史家は、”最上部の塔の上には神殿があり、その中には寝椅子が置いてあった、そしてカルデア人(バビロニアの人ぴと)は、「神ご自身が親しくその神殿にきて、その寝台で休むのだ」と言っていた”と記しています。今日、天に近づこうと試みた人びとの伝説的な記念碑「バベルの塔」は、ただその土台を残すのみです。
 

部分的に回復されたウルでの古代のジグラットの残り

ウル・ナム
ウル・ナムは多くの都市で建築事業を行ないました。伝統的なシュメールの祭儀の中心地ニップールの神殿の再建によって、彼は「シュメールとアッカドの王」という称号を獲得しました。王とその廷臣は時おりこの都市を訪問しました。宗教上の祭の期間、種々の動物が殺され、ジッグラット階段前の献げ物用の台の上に生賛にされました。王と従者は、儀式の一部としておそらく頂上の神殿まで登ったものと思われます。金、銀、オークル(黄土)のモザイクに彩られた神殿の壁画からは巨大な青銅鋳造の輝く角が突起していました。 
 さて、「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」(創世記11:7)とヤハウェは言っています。
 バベルの物語は、世界の諸民族が、初めはひとつの家族であったのに、やがて異なる言葉を話すようになったのはなぜかという謎を、こう説明しているのです。実際、この物語の背景となったと考えられる紀元前2000年期、近東の地方には数多くの民族が住んでいました。当時は政治的変動の時代、国際交易(リングア・フランカ)の盛んな時代でありました。そして、バビロニアの言語のアッカド語は、外交上国際語になっていたのです。
 バビロニアの北に住むアッシリア人はアッカド語の一方言を話していました。彼らの首都、アッシュールは、華やかな商業中心地でありました。同族商会が、遥か北西部のアナトリアの諸国と利潤のよい貿易を行なっていました。そで彼らは殖民地を形成し、アッシュールから山々を越えて、ろばの隊商を組んで運んだ錫や織物を売り、金や銀を手に入れました。
 前19世紀の終わりのころ、アッシリアに新しい王朝が起こりました。初代の王シャムシ・アダッドは、西部はユーフラテス川の中ほどの貿易拠点マリまでの地域を征服しました。そこでは、260以上もの部屋や中庭を備えた豪華な宮殿が発掘されています。マリの支配者たちの文書の研究によりシャムシ・アダッドやその同時代に生きた、ハンムラビを含む、当時の多くの人物像がよみがえったのです。シャムシ・アダッドの治世の終焉までにはハンムラビが、マリとアッシリアをも支配していました。
 ハンムラビの死後の数世紀、西アジアは大きな政治的変動を見ました。非セム系の民族、カッサイト、ヒッタイト、フルリの各部族は、バビロニアを圧迫するようになっていました。カッサイト人の話した言語については彼らがアッカド語で文書を書いていたため、ほとんど知られていません。カッサイト王朝はバビロニアを、ほかのどの王朝よりも長く、4世紀にわたって支配しました。しかし彼らもまたエラム人の攻撃により没落しました。
 またイランの南西地方のエラム王国とメソポタミアには、長い抗争の歴史がありました。前14世紀は、大規模な国際外交の時代でありました。ナイル河岸、エル・アマルナから発掘されたエジプトのファラオ、アメンホテップ4世(アケナテン)の資料庫には、シリア・パレスチナの諸侯からの手紙に交じって、西アジアの「偉大なる国王たち」からの文書も見られます。エジプトとカッサイトの王家は婚姻により結ばれ贈り物が交換されていました。
 北メソポタミアにはミタンニの王国がありました。その王はファラオにアッカド語と自分の言葉であるフルリ語で、手紙を書いています。ミタンニ王国はフルリ族諸国の連盟に属し、その支配者たちは、中央政権に従う責務を負っていました。首都ワシュカンニの所在地が、まだ判明していないためミタンニ人の歴史については多くは依然として謎であります。フルリの言語もまた解読には難点が多いようです。ミタンニ人は北シリアの支配をめぐって、エジプト人およぴヒッタイト人と問題を起こすようになりました。
 前1200年ごろに崩壌したヒッタイト帝国は、前2000年期の大部分の期間にアナトリア(小アジア)のほとんど全域の主要な政治権力を保っていたそうです。ヒッタイト人はインド・ヨーロッパ語族の言語を話し、この言葉はギリシア語、ラテン語を含む言語群の中で最も古い例となっています。いくつかのヒッタイト人の言葉はすぐに識別できるそうです。たとえば、「ワータル(watar)」はwater(水)、「クウィス(kwis)」は、ラテン語のquisと同じように、「誰か」の意味である。こうして言語は少しずつ形を変えながらも、今日の私達の時代に繋がっているのだと思わずにはいられません。


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