March





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この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
(ルカによる福音書 15章 24節)




 ある日イエスはパリサイ派の人々に聞かせるように、次のようなたとえ話をなさいました。
 ある金持ちの人に二人の息子がありました。二人とも何不自由なく育ち暮しておりましたが、弟の息子の方はその生活に飽き飽きして、何処か遠くの地にいって楽しいことを探したいと思うようになりました。そしてお父さんの所に行きこう願い出ました。
 「お父さん、私が分けて頂ける分の財産を今のうちに下さい。それを持って遠くの地に行き一旗上げたいと思います。」
息子のこういった申し出に、金持ちの父は難色を示しましたが、その息子が何度も何度も頼むので、根負けをしてしぶしぶ財産を分け与えることにしました。
 弟の息子はその土地をさっさと売り払うと換金し、それを持って遠くの国へと勇んで出かけて行きました。
お金はたんまりあるし、小言を言う人もなく、自由気ままな生活をすることが出来るのです。すぐに多くの友人が集まって来て、皆で美味しものをたらふく食べ、どんちゃん騒ぎの毎日に、弟の息子は毎日が楽しくて仕方ありませんでした。しかし働かず毎日大金を使ってばかりでしたので、しまいにお金も底をつき、とうとう一文なしになってしまいました。そうなるとあんなにちやほやしてくれた友人たちも一人、二人といなくなり、最後にはだれも相手にしてくれなくなってしまいました。その上、その頃大飢饉が起こっていたので食べる物も不自由し、分けてくれる人も誰もいなくなりました。
 



 そこで、弟息子は働かなければならないことに気が付きました。しかし、いままで怠けていたその息子を雇ってくれる人など誰もおりません。なんとかあちらこちらを捜して見つけたのは豚を世話する仕事でした。その当時豚飼いという仕事は汚いとされており、一番身分の低い人が付く仕事でした。それでも仕事がなく食べていけないと困るので我慢をしなくてはいけません。息子は僅かな食べものしか与えられず、毎日ひもじい思いで、豚のえさでもいいから食べたいと思うほどでした。
 つらい毎日に、ある日ふと昔を思い出しました。お父さんの家では使用人でもいつもお腹いっぱい食べさせてもらっていたのにと思い、やっと我に返りました。
 「そうだ、お父さんのところに帰ろう。許してもらえるかどうかわからないけど一生懸命謝ろう。」
こう決心すると、故郷の家へと向かいました。



 一方、金持ちの父親は毎日門の前で息子が出て行った方を眺め、帰りを待っておりました。
 その日も、いつものように遠くを見ていると、かすかな人影が目に留まりました。ぼろぼろの服を着てはだしで、今にも倒れそうによろよろと歩いてくる人が見えました。 
 「そうだ、私の息子だ。」
そう叫ぶと、大急ぎで走リ出しました。両手を大きく広げ息子を抱きしめて口づけをしました。
 「なんとまあ、こんなにやせ細って。よく帰って来たね。」
息子は恥ずかしさのあまり目を上げることも出来ませんでした。
 「お父さん、私は間違ったことをしてしまいました。どうか許して下さい。もうあなたの息子と呼ばれる資格は私にはありません。使用人として置いていただけませんか。」



  ところが父親は、すぐに使用人たちにいいつけて、その弟息子に新しい立派な服を着せ、きれいな指輪をはめ、まっさらな靴をはかせました。
 「死んだと思っていた息子がこうして無事に帰って来たのだから、まるまると太った子牛を料理してみんなで食べてお祝いをしようではないか。」
こうしてすぐに息子の帰還を祝う大宴会が始まりました。
 息子の失敗を何もかも許し、喜んで迎えてくれた父親を見て、息子は胸がいっぱいになりました。

 

 しばらくして兄の息子が畑から帰ってきました。そして大宴会に気が付き、いなくなった弟の帰還を祝う宴会だと知り怒って家に入ろうともしませんでした。
 「お父さんこれはいったいどういう事ですか。私は毎日まじめに働き、お父さんの言いつけをきちんと守って来たのに、これまで一度だって私のためにこのようなごちそうをしてくれたことはなかったではありませんか。」
父親は兄をたしなめてこう言いました。
 「おまえはずっとわたしと一緒にいたではないか。私の財産は全部お前のものなのだよ。けれどお前の弟は死んだと思っていたのに帰って来た、いなくなったのに見つかったのだ。こうして祝宴を開いて喜ぶのは当たり前ではないか。」


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