March





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イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
(マタイによる福音書 5章 1節)




 
 ある日イエスは大勢のひとが話を聞きに来たのをご覧になり、近くの小高い丘に登られました。12人の弟子たちもイエスに付いて行き、その後をぞろぞろと多くの群集が追いました。そしてイエスが腰掛けると、イエスを取り囲むように皆が思い思いの場所に腰を下ろしました。
 イエスは皆を見回すと、静かに口を開かれました。
 「神さまの前に誇るものがないことを知っている人は幸いです。その人の中に神さまのみこころが行われるからです。」
群集はじっとイエスの話に耳を傾けています。
 「悲しんでいる人は幸いです。その人は慰めを受けるでしょう。」
 幸いとは、聖書の原語ギリシャ語で "Μακαριος "(マカリオイ)と言います。人間として成功するとか、生活が豊かになるとかいう世俗的な幸せではなく、神さまからの祝福が注がれ溢れるという幸いのことなのです。

 

「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。

柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。

義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。

心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。

平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。

義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」 (マタイによる福音書 5章 3~12節)

この山上の説教(垂訓)は全福音書に記されているイエスの言葉の中でも光を放っています。
イエスはこの世にあまりにも貧に悩み、病苦に悩み、圧政に悩む不幸な人びとが多いのをずっと見てこられ、人びとへの深い愛の心からこうした慰めの言葉が湧き上がってきたものでありましょう。

山上の垂訓が行われたとされる場所はよくわかっていません。 福音書でイエスが布教を行ったと記してある ガリラヤに山はありませんが、ガリラヤ湖の西には高い丘がいくつかあります。 現代のキリスト教研究者の何人かは、湖の北端、カペナウム 近郊がその場所であると推測しています。 その丘の一つは現在、祝福の山(Mount of Beatitudes)と呼ばれ、 丘の上には山上の垂訓教会(Church of the Beatitudes)が建てられています。


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