March


 

 

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 あなたがわたしの戒めにことごとく聞き従い、わたしの道を歩み、わたしの目にかなう正しいことを行い、わが僕ダビデと同じように掟と戒めを守るなら、わたしはあなたと共におり、ダビデのために家を建てたように、あなたのためにも堅固な家を建て、イスラエルをあなたのものとする。
(列王記上11章38節)


 

 ソロモン王の治世は40年間続きました。多くの面でこの期間がイスラエルの1つの黄金時代であったことは疑いありません。文化や貿易や産業が発展し、イスラエルは史上初めて近隣諸国も一目置く世界的な列強国になり半世紀近い平和と繁栄を維持しました。ソロモン王は抜け目ない政治的な辣腕と商才の持ち主でしたが、ヘブルの伝統と宗教を尊重しなかったため、繁栄の陰で政治が乱れ次第に崩れ去っていったのでした。イスラエルの民はソロモンが制定した過酷な政策に抵抗して立ち上がろうとしていました。
 将来、彼らの指導者になるかもしれないヤロブアムは、安全に帰国出来る時がくるのを待って、エジプトに逃れていました。そしてソロモン王の跡継いだ息子のレハブアムは無能な支配者でありました。北部の部族はソロモン王の時代から優遇されていたユダ族に不満を持つ部族が多く、王を始めその側近たちの異教的な風習に熱心であることも不快で、またそもそも王が世襲制というのも認めていませんでした。




 レハブアム王はその北部民族との和解の機会ををことごとく潰してしまったので、北部民族は独立を宣言し、イスラエルを国名として国を自ら造り上げました。彼らはレハブアム王とユダ族の度重なる攻撃をことごとくかわしました。その結果、レハブアム王には以前よりずっと小さなユダ王国(ユダ族の領土とベニヤミン族の領土の一部)しか残りませんでした。北部の部民族は初代の王としてエジプトの逃亡から帰還し王宮の官吏であったヤロブアムを選びました。
    
 次の2世代の間、分裂した2つの王国はときおり戦争を繰り返しましたが、どちらも勝利を収めることはなく小競り合いでした。人口はイスラエル王国のほうがはるかに勝っており、イスラエル王国は約80万人、ユダ王国は約20万人でした。両国とも内政や諸外国との国交で色々な問題を抱えて手痛い打撃を被っていました。
 しかしユダ王国のほうは、ある程度社会的、政治的に統制されており、また首都エルサレムは確固たる宗教の中心地であり、350年間一系の王が安定して支配したおかげで、比較的穏やかな生活を営むことが出来ました。といっても分裂後最初の数十年はユダ王国が存続出来るかどうか否かの試練の時期でした。度重なる戦争のために、指導者たちは国内問題を顧みる余裕がなく、貧富の差は増大し、宗教的信条の荒廃ぶりは目に余るものがありました。しかし、ユダの宗教の正しい権威は、アサ王とその息子ヨシャファトによって回復されました。紀元前913年に王位に就いたアサ王は、主の教えに従う保守的な人々を支持すると告知し、神殿の祭司の職を復興し、異教礼拝のほとんど全てを禁止しました。また、北方の王国との講和も図りました。息子のヨシャファトも有能な支配者であり、経済と司法の諸改革を総括的に行い、苦しい生活を余儀なくされていた多くの国民の信頼を勝ち得ました。



 一方、北のイスラエル王国は分離独立した当初から、政治は不安定で、種々雑多の領民は殆ど意見の一致を見ることがありませんでした。そのために不穏でいつどういう政策になるか予測し難い政情であったのです。王の世襲制に反対していた預言者以外に、多くの宗教的、部族的な党派があり、これらの党派間の抗争のために、権力の移行が順調に行われることは殆どありませんでした。イスラエル王国は200年の間に19人の王に治められ、その内8人の王は横死を遂げています。

 初代の王ヤロブアムは国の支配を安定させる努力をしました。イスラエル王国でのみ行われる祭礼を制定し、ダンとベテルに神殿を建てて、祭司職を強化しました。それにもかかわらず、民たちは未だにユダ王国にあるエルサレムを信仰の中心とみすものが多く、全ての国民を従わせることが出来ませんでした。ヤロブアム王が亡くなるとイスラエル王国は長い危機の時代に入りました。次の一世代の間に5人の王が相次いで王位を継いだり奪ったりした結果、内戦状態が続き崩壊寸前の状態になりました。
 紀元前876年についに将軍オムリが対抗者全てを除き、王位に就きました。彼は軍隊の地位を高め強固なものとし、軍によって統制を得ました。サマリヤに立派な新都市を建設し、首都を置きました。しかし、異教の神々の教えを容認し、偶像礼拝を行いました。その息子アハブはそれにも増して異教信仰を取り入れ、また王の独裁政治を行いました。アハブの妻イゼベルは国際都市ツロの王宮で育ったため、イスラエルのあまり洗錬されてない文化が気に入らず、彼らの厳格な一神教に我慢がならず、忌み嫌っておりました。イゼベルはフェニキュア人の神々を祭る神殿の創始を願い出て許されました。熱心なバアル信者である王妃は、イスラエルの主の代わりにバアル崇拝を正式な国教にしようとまでしました。
 今やイスラエル王国は、その歴史で最も重大な危機に直面していたのでした。

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