March

 

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ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。(マルコによる福音書5章11節〜16節)
「日本聖書協会発行:新共同訳聖書」より
私たちには、豚はなじみ深い家畜です。今でこそ見られなくなりましたが、以前は町から少し離れた所に養豚場が良くあったようです。しかし、豚は聖書では汚れた動物として扱われています。豚は、「ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものであるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。」(レビ11・7)とあります。さらに、「美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ」(箴言11・22)、「……豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから」(マタイ7・6)とも言われています。これらの聖句から考えると、豚は本当の尊いもの・価値あるものの大切さがわからないもののようです。


 このマルコ5章(他にマタイ・ルカにも書かれています)などに記されているゲラサ人の地での、レギオンという名の悪霊につかれた人がいやされた記事は、様々なことを教えてくれます。その地では豚が飼われていました。そのゲラサ人の地というのは、ガリラヤ湖の東側の地方で、異邦人の町々であり、イスラエルの神は信じられておらず、異教の偶像が崇拝されていた所です。
 ですから、当時のユダヤ人は、めったにこの地方には行きませんでした。
イエスと弟子たちは、多分ガリラヤ湖のカペナウムから舟に乗ったのでしょう。、その途中、嵐にあい大変危険な目にあってガリラヤ地方とは反対側の東にやっとのことで渡られたのです。



 その前おられたガリラヤ地方では、夥しい群衆がイエスのそばに集まった、と聖書にもあります。しかし、この湖の反対側では、大勢の人がイエスの回りに集まる、ということはなかったのです。ただ一人の人がイエスの前に現れるだけでした。しかもこの男は、汚れた霊につかれたとされた人でした。社会からは見捨てられた人でした。
 しかし、イエスは、この人に出会うためにわざわざ船に乗って対岸までやって来たのです。イエスが彼に名を尋ねると「レギオンです」と答えています。レギオンというのは、ローマの1軍団のことです。約六千人から成っていたそうです。
 当時このガリラヤ湖の東の地方も、ローマの支配下にありました。そして、このレギオンと言われるローマの軍団が駐留していました。もしかするとこの男は、このローマの軍団にひどい目にあったのかも、例えば、彼の家族のだれかがこの軍団によって虐殺されたとか、それが原因で彼は気が狂ったのかも、そして総ての希望を失って墓場に住んだのかもしれません。



 とにかく、墓場に住む、ということは、この世の希望を全く捨ててしまったことを表しています。社会からも家族からも捨てられてしまったのでしょう。彼を理解する人は一人もなく、全くの孤独であったことでしょう。この男は、愛に飢えていたのでしょう。人間不信になっていたのかもしれません。このような男にだれも近寄ろうとはしなかったでしょう。
 しかし、ただ一人、彼を憐れみ、彼を愛し、彼を救おうとされた方がいました。イエスさまです。イエスは、この男を深く憐れみ、この男にとりついている悪霊を追い出そうとされました。この人を憐れに思い、この人の煩いを身に受け、この人の病を負おうとされたのです。この人は、今まで、本当の愛、本当の隣人を経験しなかったのかも知れません。イエスとの人格的な出会いにより、本当の愛、本当の隣人を経験して、病気が癒され、正気にかえったのではないでしょうか。
 奇跡が起こったとすれば、それはイエスが本当にこの人を憐れみ、愛されたからでしょう。


 さて、豚の話を聴いたゲラサの地方の民衆は、どうしたでしょうか?「それから、ゲラサの地方の民衆はこぞって、自分たちの所から立ち去ってくださるようにとイエスに頼んだ。」と聖書にあります。彼らは、一人の人が癒されたことの大きな出来事に目を向けずに、沢山の豚が水に溺れたことのみを見ているのです。豚が死んだその損失ばかりに目がいってしまったのです。汚れた動物と知りながら豚を飼っていたということは、人々は霊の豊かさよりも物質的な豊かさを優先させていたことがわかります。だから、悪霊が豚に乗り移って二千匹の群が失われたとき、彼らは一人の人がいやされたことを喜んだのではなく、このような大損害を引き起こしたイエス様に立ち去るよう願ったのです。
 今の時代も経済優先の社会において、老人や弱い立場の人たちに対する配慮にかけています。儲けるためには、たとえ人を犠牲にしても、全然気にせず平気なのです。
 でも、聖書においては、あくまで一人の人間を大切にします。それは、神の与えし生命であるので、どんな小さな人、どんな弱い立場の人、あるいは社会にとって何の価値もないと思われるような人であっても、どんな物とも比較出来ないほど貴重なのです。

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