Jun

 

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「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」
(ヨハネによる福音書5章8節)



 エルサレムの北の城壁の東寄りにある「羊の門」の近くに、ベトザタと呼ばれる人工の池がありました。その池は廊下で二つに仕切られていて、北側の池は東西52m南北40m、南側の池は東西64m南北47mの四角い池でした。この池の存在は長い間、忘れられ、ヨハネの福音書の中だけにその名が残されていました。そのため、実際にこのような池があったか、長い間、その史実性が疑われていたのです。しかし、エルサレムの町の発掘調査の結果、この池の跡が出現し、ヨハネの福音書の記録の確かさが今では証明されています。
 池の回りには屋根のついた回廊があって、そこに大勢の病気の人や手足が動かない人たちが寝そべって池を見つめていました。ベトザタの池には天の使いが舞い降りて来て水をかき回す時、一番最初に池の中に入った人の病気が治るという伝説がありました。病人たちは水が動いたら誰よりも先に池に入ろうと、真剣そのもので水面を見つめていました。
 その中に38年間も病気で苦しんでいる男の人がおりました。ちょうどユダヤのお祭りがあり、エルサレムにいらっしゃったイエスが、その男の人をご覧になったのです。イエスはその人が長い間患っており、どうしても治りたいがためベトザタの池に来て、水が動くのを待っていることをすぐおわかりになりました。
 「あなたは、よくなりたいのですか」
もちろん良くなりたいために池のほとりに来たのですが、この人は長い間患っていたために、もう一生このままかもしれないと思うようになっていました。
 「いくら水が動いたとしても、私を池に入れてくれる人がいないのです。入りたいと思っても、他の人に先を越されてしまうんです。」
この返事の中には、誰も私をかまってくれない、どうせ治るわけないというような投げやりな気持ちがこもっていました。しかし、イエスはその心の奥底に押し込めた思い、願いをちゃんと見抜いておられたのです。
そして、主イエスは命令されました。「起きよ。生きよ」との力強い命令の言葉が響きます。起きるということは目覚めることで、主イエスは目覚めることを命令されたのです。命の主イエスがそばにおられる。この主の世界に生かされていることに目覚めることが求められています。この命の主の言葉が響いているのです。
 「新しい世界に歩きなさい。生きなさい」と命令される。この人は主イエスの命の言葉によって立ち上がり自分の足で歩いて行きました。

その後、その人を神殿の中で見かけたイエスは声をお掛けになりました。
「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」(14節)。

 このイエス様の言葉を読むと、ここで38年間も病気で苦しんでいた人の病気の原因は彼が犯した何らかの罪によるものだ言っているように聞こえます。昔から因果応報と言う言葉がありますが、病気は自分の犯した罪の結果から起こるものだと洋の東西を問わず多くの人が考えて来ました。それはこのイスラエルの人々も例外でありませんでした。しかし、イエスはそのような思いでこのようなことをおっしゃったのではありません。その人が他人のせいにして病気を諦めていたこと、困難に自ら立ち向かおうとしなかったことを指摘なされたのです。彼自身がもはや自分の人生に希望を持つことを放棄してしまっていたことを諌められたのです。
「どんな時でも希望を失わず自ら立ち向かっていきなさい」
主イエスは生きる希望を呼び起こします。

              


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