バプテスマのヨハネは自分の弟子たちに
「ナザレのイエスさまこそ待ち望んでいた救い主です」
と教えていました。ある日バプテスマのヨハネが弟子のヨハネとアンデレと共にいるとイエスが通りかかりました。
「ごらんなさい、世の罪を取り除く神の子羊がいらっしゃいました。」
バプテスマのヨハネがそう教えるとヨハネとアンデレはイエスの後について行きました。
イエスは彼らを振り返ると
「あなた方は何を求めているのですか?」
と聞かれたので、二人はあわてて
「先生、どこに泊まっておられるのですか?」
と答えました。
するとイエスは
「いらっしゃい、そうすればわかります」
とおっしゃいました。
その晩遅くまでイエスの話を聞いていた二人は、この方は神様から遣わされた特別の方だと確信し、喜んで弟子になりました。 |
|
さてバプテスマのヨハネが捕えられたと聞いたイエスは、がリラヤ地方へと退かれ、カフェナウムという湖畔の町へ行かれました。そこで「悔い改めよ、天の国は近づいた」と多くの人々に宣べ伝えられました。このことは預言者イザヤによって預言されています。
イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられると湖で網を打っている者をご覧になりました。イエスさまは
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」
といって四人の漁師を招かれたのです。
「わたしについて来なきい」とは「弟子となってわたしに従ってきなさい」という呼びかけです。この招きは全く神さまの恵みでもありました。それは「魚をとる漁師」から「人間をとる漁師」にするという、いままでの人生とまったく異なった新しい存在にするという約束であります。この「人間をとる漁師」には才能があるからとか、人間的資格があるからではなく、むしろ何の取り柄もないような普通の人への招きでした。
2人はすぐに網を持って従い、もう2人もすぐに、舟と父親を残して従いました。
|
|
さて、この物語は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に書かれています。最初のヨハネの物語はヨハネの福音書に記されているもので、矛盾しているところもあるように思います。けれども、いずれの場合も、今までの自分の生活を擲って、イエスにそのまま従っていかれたのです。
普通こういう場合、わたしたちはさまざまな言い訳をしたくなります。「まだ、わたしにはすることが残っています」とか、「あのこと、このことをしなければなりません」というようにです。そしてまた、イエスさまの呼びかけに、「わたしは主の召命を受けるにふさわしくありません」としりごみするのです。しかし、この弟子たちは自分が主の招きを受けるにふさわしいかどうかなど全く考えることはしませんでした。
弟子として招く者たちが生き、そして働く生活の中にイエスさまが共にいてくださって、暖かいまなざしを注いでくださっていたことを心で感じ、受け止め素直な気持ちで従って行ったのです。
わたしたちを招いてくだきる方は、このわたしがどんなに無力であるかをすでにご存知です。それでもなお、「わたしについて来なさい」と招かれているのです。
|