June




 

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その後程なく、王はアテネ生まれの長老を派遣した。王は、ユダヤ人を無理やりに父祖伝来の律法から引き離し、神の律法に沿った生き方を禁じ、 エルサレムの神殿を汚し、その神殿をゼウス・オリンポスの宮と呼ばせ、地域住民が集まってくるゲリジム山の神殿をゼウス・クセニオスの宮と呼ばせた。
          
 (マカバイ記二6章1節〜2節)


アンティオコス3世

 南シリアの領土を巡っての1世紀にわたる戦争の後、紀元前200年ころアンティオコス3世が第5次シリア戦争に勝利をおさめ、この地域はプトレマイオス朝からセレウコス朝の支配下に入りました。パレスチナのユダヤ人にとって、この占領は当初何の変化ももたらしませんでした。
 この時期にヘレニズム文化が広まりつつあり、特に上層階級はヘレニズム文化に同化することによってギリシャ・マケドニアの支配階級の中に取り入ろうとしていたようであります。また対して、 「ハシディム」と呼ばれるヘブライ語では「敬虔な者」という意味の、極端に教条主義的で排他的な国粋主義者たちの集団が、ヘレニズム文化に染まったユダヤ人たちをイスラエルとその宗教の敵とみなし、反対運動を起こしていました。ソフェリム(律法学者)を含めて多くの学者たちもこの集団に属していました。
 前175年にアンティオコス4世がセレウコス朝の王として即位しました。アンティオコス4世は以前人質としてローマで暮らしていた為、ローマの習慣や各種施設に強い影響を受けていました。彼は才智に長け感情の起伏が激しく野心家でもありました。しかし、兄や父と同じように「アバメア講和条約」のローマへの巨額な賠償金の為に財政的にかなり苦しんでおりました。
 そんな王に付け込んで、ヘレニズム文化を目指すトビアド家のヤソンは、王に新しい収入源を提供するという約束をして、世襲の「大祭司」の地位をオニアから奪いました。さらに多くの金を貢いで、その見返りとして体育施設・教育施設の設立と「エルサレムで住民をアンティオキア市民として登録すること」の許可を受けました。こうしてギリシャの行政機関がエルサレムに作られ政策上の目的にかなう大祭司を王が任命するようになったのです。 これによりユダヤ主義者との対立は一層激しさを増していったのです。

アンティオコス4世



    
 しかしその後、紀元前172年にはシモンの弟であるメネラオスがヤソンを上回る貢納金を納めて大祭司職を得、ヤソンは地位を失いました。メネラオスは(恐らくセレウコス朝の指示によってですが)勝手にエルサレム神殿の財産を持ち出すなどしたために敬虔派のユダヤ人の憎悪を買いました。そんな中でエジプトに遠征していたアンティオコス4世が死亡したという噂がパレスチナに流れました。これを好機と見たヤソンは地位回復を目指して挙兵し、エルサレムを一時占領しましたが結局破られて死亡してしまいました。ところがこのヤソンの挙兵はエジプト遠征中のアンティオコス4世に「ユダヤ人が反乱を起こした」と報告されてしまったのです。実際アンティオコス4世にしてみれば遠征中に後方で起こった騒乱、しかも彼が任命した大祭司に対して武力行使に及んだヤソンの行動は反乱以外の何者でもなかったかもしれません。アンティオコス4世はエルサレムに進軍して神殿を掠奪し多数のユダヤ人を殺害、又は奴隷としました。そして要塞を築いて非ユダヤ人を駐留させ監視させるとともに、ユダヤ人に対しユダヤ教の律法に基づいて生活することを厳禁しました。そしてエルサレム神殿はゼウスの神殿とされてしまいました。また、アンティオコス4世は政治的弾圧から宗教を迫害し始めました。ギリシャ人で無い者はそれぞれの慣習、特にユダヤ人には安息日を守る、祭壇と偶像を拝まない、子供に割礼を施す、豚等汚れた動物を生贄としない等を捨てることを命じ、それに従わない者は誰であろうと死刑に処すという命令を出しました。モーセの律法書の所持は死罪となり、書物は押収され焼かれました。
 


 こうした中、紀元前166年に、セレウコス朝の将軍リュシアスは、アンティオコス4世の代理としてユダヤ人達にゼウス神への奉納を命じました。エルサレムの祭司家やヘレニズム的な貴族たちは親セレウコス朝の立場を取ってこれに従ったのですが、地方都市モディンの祭司マタティアは、これを強制したセレウコス朝の役人とその仲間の親セレウコス朝的なユダヤ人を殺害してしまいました。そしてマタティアが息子たちと共に山中に隠れると、セレウコス朝に対する敵意を募らせていたユダヤ人がそこに集まってきました。マタティアはこれを軍に組織し、次第に本格的な反乱となっていったのです。 
 マタティアは当初、息子たちと小規模なゲリラ戦を行って異教の神殿を破壊していましたが、間もなく死去してしまいました。彼の死後に跡を継いだ息子のユダ(ユダ・マカバイ、ユダス・マッカベイオス)は父の勢力を継承してセレウコス朝からの独立を目指す戦争を開始しました。ユダと兄弟たちはセレウコス朝の将軍ゴルギアスをエマオの戦いで破り、続いてベト・ズルでリュシアスも撃破し、紀元前165年末にはエルサレムを包囲してセレウコス朝軍を要塞に封じ込め、エルサレム市内に入場しました。そして紀元前165年12月25日、エルサレム神殿からヘレニズム的な司祭を追放し、異教の祭壇を撤去することで神殿を清め、再びヤハウェ神に奉納を行ったのでした。この出来事を今も記念するのがハヌカーと呼ばれるユダヤ教の祭です。



 アンティオコスは怒りにかられて自らユダヤ侵攻軍を率いましたが、道半ばにして急死してしまいました。紀元前163年のことでありました。アンティオコス4世は勃興しつつあったパルティア王国への派兵も繰り返しており、作戦の当初においてパルティア軍を打倒したが、これも王の急死によって断念されてしまいました。アンティオコス4世の継承者となったのはまだ幼かったアンティオコス5世エウパトルでありました。
 この時代はセレウコス朝が勢いを見せた最後の時代となりました。彼の死後、幼い王子が残されたため、セレウコス朝は混乱し、以後、衰退の一途をたどることになるのです。

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