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「一体、どこの国が/神々を取り替えたことがあろうか/しかも、神でないものと。ところが、わが民はおのが栄光を/助けにならぬものと取り替えた。 」
(エレミヤ書2章 11節)



シロアム碑文
 ユダの王ヒゼキヤ(在位紀元前715-687/6年)は紀元前700年頃、アッシリア軍のエルサレム包囲に備え、城壁内に水を引くための新たなトンネル水路を掘ったが、その水道近くで、1つの碑文が発見されました。
 この碑文はヒゼキヤ王の時代のものであり、たしかに列王紀や歴代志が語る、ヒゼキヤ王の業績について興味深い証言をしてくれます(U王2020;U代32:30)。シラ書は具体的に「ヒゼキヤは自分の町を固め、市内に水を引き、鉄の工具をもって切り立つ岩をくり抜き、用水池を造った」と記しています(48:17)。
 工事を完成させた技術的功績を伝えるこの碑文は、シロアムの池に通じる出口からすこし奥まった壁面に刻まれていました。下部には花枠(カルトゥーシュ)が刻まれており、上方には日付か見取図が刻まれる予定であったのでしょうが、結局なにも書かれないままになっています。おそらくこの碑文は公式の記録ではなく、技術者や労働者がその成功を祝って刻んだものと思われます。
 碑文はヘブライ語最古の書体(紀元前700年頃)で刻まれており、切り取られたその岩はトルコのイスタンブール考古学博物館に所蔵されています。その複製はルーヴル美術館とエルサレムのイスラエル美術館にも所蔵されています。
 6行からなる碑文は、専門家によって以下のように訳されています。「貫通した。貫通にいたる経緯はこうだ。つるはしでもって、双方から(掘り進み)、(掘るのがあと)3キュビトに(なった)とき、おたがいに呼びかう声が(聞こえてきた)。右手の岩に(裂け目?)があったからである……貫通の日、石工たちはたがいに相手のほうに向かってつるはしをふるいながら、掘り進んだ。そして水は水源から1200キュビト離れた池へ流れた。また、石工の頭上の岩の厚さは100キュビトあった」。
W・F・オールブライト教授によれば、シロアム碑文はイザヤ書の正字法をよく示しているとのことであります。下の写真はこの碑文を複製したものの1つです。(Cl・Lessing・Magnum.)

神殿で発見された律法の書
 ヨシア王の時代に、神殿の修復の際に、モーセの契約の意味を詳細に説いた1冊の古い法書(現在「申命記」と呼ばれている)巻物の主要部分が発見されました。紀元前622年頃だと言われています。おそらく敬虔な人達の手によって、密かに神殿の壁の中にでも隠されていたのかもしれません。というのも、前王のマナセが、主の礼拝にまつわるものを全て破壊してしまっていたので、律法の写しは当時殆ど存在していなかったからです。
 下の写真は、リモージュの著名なエマイユ工芸家ピエール・レイモンが製作した高価な絵皿です。ヨシア王の前で、発見された律法の書を読んでいる祭司が描かれています。これは、王が意図的に、長い間放棄され、忘れ去られていたシナイ山の契約を厳粛に更新するために、集まった民の目の前で律法を読み聞かせたのだと記されています。
 
アハズの日時計
 南王国ユダの王ヒゼキヤは病気になって死にかかっていましたが、預言者イザヤに、「まもなく癒されるであろう」と告げられ、そのしるしを神に求めます。イザヤは主からのしるしとして、主は、「アハズの日時計の上に進んだ日影を十度退かせよう」と述べるのです(イザ38:1-8; U20:1-11; U代32:24)。
 「日時計」と訳されたヘプライ語「マアロート」は、文字どおりにとれば「階段」を意味するところから、アハズの宮殿の屋根にのぼる階段を指していたとも考えられています。
 これは東西に向けられた一対の階段で、宮殿南側に設けられ、東西にある壁の影が太陽の動きにつれて階段にさし、日時計の「度」を示していました。ヘロドトスによれば、太陽の動きで時刻を表わす日時計は、カルデアを起原としています。
 1920年頃、古代バレスチナの町ゲゼルの発掘が行なわれ、太陽の高さを示す「日時計」が発見されました。これは指針面に落とす影の長さで時刻を計るようになっているのです。
 いずれにせよ、目盛りを刻んだ平面におちる影も、階段におちる影も、時計の針と同様、つねに一定の方向にしか進まないのです。したがって、「進んだ日影を十度退かせる」、つまり「後戻りさせる」ことは、まさに奇跡的なことなのであります。(A・M・ジェラール)