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 しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。
(出エジプト記2章3節〜5節)


 エジプトに住みついたヘブライ人たちは、豊かに富み、子孫もどんどんふえて、強大な民族になってゆきました。
 ヨセフの時代のエジプトの支配者は、ヒクソスという、エジプト人にとって異人種の人びとでしたが、まもなくエジプト人が反乱を起こして自分たちの王を立て、ヒクソス人の王を追い出してしまいました。新しい王はヨセフの功績を知りませんでしたし、知っていても、対立していたヒクソス人と友好関係にあったわけですから、同じことだったでしょう。新しい王は、ユダヤ人をみな奴隷にしてしまいました。彼らはゴセンの地に住んでいましたが、そこはエジプトでは諸外国との入り口にあたる場所で、もし彼らがこのまま増え続けこれ以上強大になったら、諸外国と手を組み敵側についてエジプトを乗っ取られてしまうにちがいない、と恐れたからです。
 新しい王セティ1世は、役人に監督させて、ヘブライ人に重労働をさせました。彼らの仕事は、巨大な宮殿、穀倉、城壁、城門、神殿などの建設用のれんがを作ることであり、エジプトの暑い太陽の照りつける中での過酷な労働でした。藁と泥を混ぜ合わせそれを長時間踏み続け混ぜ合わせ、型に流し込み8日間くらい日干しにし、出来上がったものを運搬する作業が何年も何年も繰り返され、側ではエジプト人の監督が鞭を持って見張っていました。こうした苦難にもかかわらず、彼らの人口は益々増えてゆきました。
 



 王は、唯一の神を信仰しパロの崇める神を拒否し続けるヘブライ人に対し、虐待だけではなく、たとえこれによって大きな労働力を失うことになっても、ヘブライ人を絶滅しようと考えました。まず労働力のない男の子を殺すよう助産婦たちに命じました。こうすればやがてこの民族・社会は絶滅するだろうと思ったのです。しかし助産婦たちはこの命令に従わず、「ヘブライ人の女はエジプトの女と違い健やかで、助産婦が行く前に子供を産んでしまうのです」と申し開きしました。
 そこで王は
「ユダヤ人の家にもし男の子が生まれたら、みな川へ投げこんで殺してしまえ。女の子なら生かしておいてもよい」という命令を出しました。 
 この頃、ヘブライ人のレビ族のアムラムとヨケベデという夫婦の間に1人の男の子が産まれました。あまりに美しい子供だったので殺すことができず、母親はその子を3ヶ月の間隠して育てておりました。しかしもう王の官吏の手からは隠しきれないと悟り子供の命を救う計画を練りました。パピルスで小さな籠を編むと、その中に赤子の息子を入れ、ナイルの葦の茂みに置きました。そこは高貴な女性がたびたび水浴びに訪れる場所であったからです。赤子の姉のミリアムは茂みの間に身を隠して、弟が誰かに拾い上げられるのを期待しながら見守っていました。
 暫くすると、そこへパロの娘が水あびに来て箱舟を見つけました。召使いに命じて、それを取ってこさせて覆いをあけてみると、中にはかわいらしい男の子が泣いていました。
 「かわいそうに。きっと、ヘブライ人の子ですね。」
王女がつぶやいたとき、隠れて見ていたその子の姉がかけ寄って来て言いました。
 「王女さま。もしこの子を助けてやりたいと思し召されるのなら、私、丁度乳母に良いような人を知っておりますから、連れてまいりましょうか?」
王女が
 「そうしてください。」
といったので、姉はすぐに走っていって、自分の母親を連れてきました。こうして、男の子は、自分の母親に、無事に育てられました。
 
 子供は3歳になるまで両親と姉ミリアム、兄アロンと共に都の端にある葦作りの粗末な小屋で暮らしました。周りの人々は老若男女を問わず長時間あくせく働いていました。田畑を耕し、日干し煉瓦の労働に駆り出され、刈り入れの頃になると王の官吏が来て徴税分を計算し、刈り入れた穀物は殆ど王の穀倉へ運んで行かれました。モーセは子供心にも、その周囲の世界を少しずつ意識し始めていました。
 さて、子供が大きくなったので、母親はパロの娘のところへ連れてゆきました。
王女は、子供に、モーセ(「引き出す」という意味)という名を付けました。王女は、自分がその子を、水の中から引き出したのでそういう名まえを付けたのです。モーセはそれから後はパロの宮殿で王子として養育されました。
 モーセの住まいは今度は黄金やトルコ石や瑠璃で飾りたてられた建物に変わりました。夾竹桃やジャスミンが芳香を放った色彩豊かな庭園で王子たちや王宮に預けられた子供たちと共にたわむれながら過ごしました。エジプトでは外国人の子弟(大部分がパレスチナ地方のエジプト領臣の息子たち)が、ファラオの宮殿で王室の子と一緒に育てられることは珍しくなかったのです。
 6歳になるとモーセは神殿にある学校に行き教育を受けるようになりました。エジプトの貴族階級を象徴するりっぱな亜麻布の白い腰巻を身に着け始めたのはこの頃からでしょう。
嵐の神セトを祭る神殿では、少年たちはあぐらをかき、石灰石を薄く切って作った罫線の引いてある板を用いて、神殿の書記官から象形文字の書き方を教わりました。10代後半になるまでモーセの世界はこの壁に囲まれた宮殿と神殿の区域に限られていました。
 一人前の若者になり、外の世界に接したモーセは忙しく動く周囲の世界に、興味を持つようになります。玄武岩で舗装された通り、堂々たる公共建物、巨大なパロの像、赤いスフィンクスや黄金の屋根を頂く高いオベリスクに感嘆しました。
     
 成長したモーセは、美しく、物腰や外観はエジプトの貴族そのもので、王子のしるしとして衿に宝石をちりばめた白い亜麻布のチュニックを着ていました。この頃までには、宮殿において、戦闘の仕方や狩や競技や指導力など貴族として必要な心得をすっかり身に付けていました。しかし、モーセは特権階級の世界に身を置きながら、孤独で場違いな感じをぬぐうことは出来ませんでした。同じ血筋の民たちが奴隷の境遇で苦しんでいるのに自分だけがこの様な贅沢な暮らしをしていて良いのだろうかと深く悩んでいました。
 そうしたある日モーセは、ある建設現場を通りかかって、エジプト人の監督が1人の疲れ果てたヘブライ人の奴隷をむちで乱暴に打ち据えているのを目撃しました。あまりの残虐さに激怒したモーセは、あたりを見回して誰もいないことを確かめると。むちを振るっていたエジプト人を殴り、殺してしまいました。モーセは砂中にその死体を埋めると急いで現場を立ち去りました。翌日その出来事に目撃者がいることを知ったモーセは、罰を逃れる為エジプトを脱出して、シナイ半島南端の山中に身を隠しました。エジプトの青々とした地で育ったモーセには、砂漠の灼熱の太陽の照りつける中の旅は苦難に満ちたものでした。
 やっとオアシスにたどり着いたモーセは飢えと疲れに苦しみ井戸端に座っていました。そこへミディアン人の祭司エトロ(レウエル)の7人の娘たちが、父の羊を連れてやってきました。娘たちはその井戸から山羊の皮袋で水を汲み、側の羊用の水槽に注いでいました。ところがそこへ羊飼いの一団が現れて乱暴に羊と娘たちを井戸から追い立ててしまったのです。モーセは急いで飛び出しその羊飼いたちと闘い彼らを追い払いました。
 娘たちは家に戻ると、その出来事を父に話しました。父の祭司レウエルは「そのかたは何処におられるのか?なぜそのかたを置いてきたのか、早く呼んで来て食事を差し上げなさい」といい、人をやってモーセを家に招待しました。祭司エトロに歓迎されたモーセはやがてその家族と暮らすようになり、エトロの娘ツィポラと結婚しました。モーセは遊牧民のミディアン人から、砂漠の厳しい環境の中で生きていく為の様々なことを学びました。この貴重な体験が、後にモーセが自らの民を契約の地へといざなう助けとなるのです。

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