雀は日常私達の近くに生存します。庭を見てもほら芝生や木の上に、道を歩いていてもほら電線の上に・・・とても見慣れた光景ですね。雀はあまりにも身近にいすぎて、その存在も忘れてしまうほど価値を認められていない鳥です。聖書でもその点は変わりません。マタイ伝には二羽の雀で一アサリオン、ルカ伝には五羽の雀で二アサリオンとあります。アサリオンはその当時の最小単位の銅貨ですから、一羽の雀は最小単位の銅貨よりも価値がありませんでした。でも、イエス様は「だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許がなければ、地に落ちることはない。」(マタイ10・29)と言われました。神様はその価値がないように思われている小さな雀でさえも覚えて守って下さるのですから、どん小さな私たちでも雀と同じように見ていて下さるのです。
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また、イエス様は「体は殺しても、魂を殺ことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も、地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10・28)と教えられた後で、雀のことを言われました。すなわち、どんなに激しく迫害を受けたとしても、たとえ命が奪われたとしても、それより道を間違わないで神様の御心を行って人生まっとうすることを大切に思いなさい。そして私たちの主である神様を恐れ敬うることを忘れないようにしなさいと言っておられるのです。
聖書に出てくる使徒たちは命の危険をものともせずにイエス様を宣べ伝え続けました。ヤコブは迫害の中で殺され、ペテロは処刑の前日まで牢屋に入れられました。パウロは宮から引きずり出され、ローマ軍が介入しなければ殺されるところでした。「しかし、人の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」(マタイ10・33)とイエス様は続けています。使徒たちは死よりも、イエス様から「知らない」と言われることを恐れたのです。
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私たちはもうすぐペンテコステを迎えようとしています。ペンテコステは使徒言行録の二章に記されているように聖霊が教会に臨んだ日です。しかし、ペンテコステの出来事は一回限りで終わってしまったのではありません。31節にあるように教会は新たなペンテコステを経験します。イースターの日が過ぎ去っても教会が日曜ごとに礼拝をして主イエス・キリストの復活をおぼえます。同じ様に、私たちは日曜ごとにペンテコステの出来事にも心を向けるのです。聖書は、孤独を愛する人に社交的になれとか、寡黙な人におしゃべりになれという人格改造を要求してはいません。ただ、こじんまりとまとまった宗教的教養人としておさまってしまうのではなく、神の前に開かれ、神の言葉に聞き、そして神の言葉を語るあの大胆さを知るように呼び掛けているのです。 |