馬は学術的には哺乳綱奇蹄目ウマ科ウマ属になります。
奇蹄目というのは蹄が奇数ある動物で、馬のほかにはサイやバクなどがいます。どちらも絶滅に瀕している動物ですね。
ウマ科には馬のほか、シマウマとロバがいます。
シマウマは、ほとんど家畜化されたことがないために馬よりも人に慣れにくいようです。牡のシマウマと牝の馬との交配によって産まれたものをゼブロースといい、その逆の場合をホーブラといいます。
ロバは馬よりも小さく力はありませんが持久力があります。そこでお互いの長所を伸ばすように馬とロバとの交配が古代ローマ時代より広く行なわれてきました。
牡のロバと牝の馬の交配によって産まれたものはラバといい、世界各地で重宝されています。逆の場合はケッティといいますが、母親がロバだけに小型に生まれるため、あまり人気はありません。
ラバにもケッティにも子孫を残す能力はほとんどなく、一代限りの雑種となっています。 |
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昔から馬はよく風にたとえられてきました。尾やタテガミを風になびかせながら走る様子はまさにそのようですし、自動車や汽車が現れるまでの長い間、人間にとってもっとも速い乗物は馬でしたから。
それでは、なぜ馬は速く走れるようになったのでしょう。それは馬が生き残っていくための有効な手段であったからなのです。
草原で、馬は天敵である肉食動物、ライオンやオオカミなどからいつも狙われていました。それに対抗する武器となるものを何も持たない馬は、彼らよりも速く走る能力を身につけることで生きのびてきたのです。
馬の走力が他の動物よりも優れている点は、その持久力にあります。瞬間的なスピードで馬より速い動物はいますが、速さを持続することでは馬が抜きんでているのです。
そこに注目した人間は、輸送・移動の手段として馬を利用するようになりました。馬も人間の期待にもこたえてくれ、人間の良きパートナーともいえる存在になっていきます。
聖書の中では馬は数多く記されている動物です。そして、大部分馬の出てくるところは争いの場面が多いのです。「エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。」(出エジプト14・23)とあます。その当時ユダヤの人々はエジプトの国で奴隷となっていたのですが、神様の導きにより逃げて行くところだったのです。しかし、エジプトのファラオの軍隊が追いかけてすぐそこまで来たのです。ユダヤの指導者モーゼは神の命により海に杖を振りかざし海を真っ二つに開きそこを渡り始めました。エジプト軍はそれを追い馬諸共海に入ってきます。ユダヤの人達が渡ったとたん海は元のように水が満ち溢れエジプト軍は海の飲まれてしまうのです。
また、ヨハネの黙示録6章に出てくる白い・赤い・黒い・青白いなどの馬は、神様の人間への裁きとそれがもたらす戦争を意味しているのだそうです。このように昔から人は馬を戦争のための機動力として常に使っていたので、聖書にもよく出てくるのですね。 |
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イエス様はエルサレムに入城されるとき、ろばの子に乗っておられました。
「『見よ。お前の王が、お前のところにおいでになる。柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」(マタイ21・5)
イエス様は神の御子として馬小屋でお生まれになり、また真の王として荷物を運ぶろばの子に乗られました。このようにイエス様は低くへりくだられて、弱いものも貧しいものも幼いものも皆わたしの所にいらっしゃい・・・と呼んでくださったのです。
聖書では「見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。」(黙示録19・11)と、イエス様が白い馬に乗られる姿が描かれています。イエス様は救い主です。イエス様は人間の罪を担って十字架にかかるためにこの世に来られました。そして私たちを罪から解き放って下さるのです。それがイエス様の勝利の証なのです。今、まさに本当の勝利者となったイエス様が、馬に乗ったお姿で表されているのでしょう。 |