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ヨハネによる福音書 10:7-18

 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、 羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。 良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、 狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。 わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。 わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。 その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。 こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。 それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。 わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。 これは、わたしが父から受けた掟である。」
「日本聖書協会発行:新共同訳聖書」より

   

 
     

 聖書には「羊」が約500回も登場するのです。一般的に羊を表わすのがSheepです。旧約聖書で神の生け贄の動物であったのが雄羊(Ram)、やはり旧約聖書での雌羊(Ewe)とその子羊(Lamb)と一口に羊と言ってもそれぞれ違う呼び名なのです。子羊(Lamb)もまた旧約聖書に生け贄として登場し、新約聖書においてはイエスのことを「神の子羊」と呼びました。
 羊は、聖書の地の人々にとっての主要な財産であり、ステイタスでもありました。ソロモンは神殿を建てたとき、12万頭の羊を生け贄として捧げ、食卓には毎日100頭の羊を出しました(『列王伝』5)。 羊は人々の生活の必需品であり、ミルクと肉は食用とされ、羊毛は衣服に、皮は家屋の覆いなどに用いられたのです(『出エジプト記25』)。 羊飼い(Seepherd)たちは裕福な羊の所有者に雇われていました。生活は楽ではなく、粗末な服を着て、重労働を強いられていたようです。牧草地を求めて、夜中に休息もせずに移動しなければならないことも度々ありました。しかしそんなときも羊飼いは、つかのまに夜空を仰ぎ見て星々に心打たれたり、思いをはせたりしました(『サムエル記上』17、21など)。 ベツレヘムの馬小屋でキリストが誕生したとき、野宿しながら夜通し羊の群れの番をする羊飼いたちのところに、天使たちがやってきて、そのことを伝えたのです(『ルカによる福音書』2)。

 

プロテスタントの聖職者を「牧師」さんと呼びますが、なぜ「牧」なのでしょうか?英語で牧師のことを「pastor(パスター)」と言います。この単語のもともとの意味は「羊飼い」。「牧場」を意味する「pasture(パスチャー)」や郊外のマンションの名前によく使われる「pastoral(パストラル=田園の)」と同根です。聖書の中でイエスが「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネによる福音書、10章11節)のように人を羊に喩えていることから、人を導く聖職者も「羊飼い」というわけです。種痘の発明者であるフランス人の「Pasteur(パストゥール)」の先祖も牧師さんだったのでしょう。というわけで、この「pastor」を意訳したのが日本語の「牧師」という言葉なのです。因みに現代英語では羊飼いのことを「shepherd(シェパード)」と言います。日本人にとっては牧羊犬の名前ですね。しかしまた、牧師もやはり羊のひとりでもあるのです。

 ヨハネによる福音書21章15節以下で、イエスは三度ペトロに「わたしを愛しているか」と問いながら、「わたしの羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい」と語っています。ペトロは決して特殊な人物ではありません。わたしたちはイエスに招かれることによって同時にペトロが受けたのと同じ使命を負わされていると言えます。もちろん、イエスはわたしたちの不十分さや弱さを知っていますから、わたしたちをこの世に遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものだ、とも語っています。しかし、それでもイエスはわたしたちがこの世とかかわり合っていくことを求めています。それはイエスの立場から言えば、次のようになります。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(16節)。
イエスは「わたしは良い羊飼いである」とわたしたちに語りかけています。真の、善き羊飼いは羊の群れを守り、迷った羊を探し出します。イエスは自らを羊飼いに置きかえました。主は羊飼いのようにその群れを養い、その腕によって子羊を集め、子羊をふところに抱くのです。 イエス自身が、善き羊飼いであり、羊のために命を捨てることさえ厭わないのです。