February




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主はそこでイスラエルのすべての子孫を拒んで苦しめ、侵略者の手に渡し、ついに御前から捨てられた。 (列王記下 17章 20節) 

 

 サマリアは、アハブの父オムリリ(在位紀元前878〜871年)によつて、イスラエルの新しい首都として建,設されました。それまで人の住んでいなかった丘に戦略上の目的で置かれたこの町は、厚い防御城壁によって強固に要塞化されていました。
 しかし、紀元前9世紀になると、イスラエルのはるか東方にある国アッシリアが勢力を強め、シリア・パレスチナの諸国に影響を及ぽし始めました。シャルマネセル3世がアッシリアの西方領土拡張政策を進めると、各地の支配者たちは互いに小異を捨て大同につく努力をし、この共通の敵に対して同盟を結びました。
 前853年に、イスラエルのアハブ(参照)を含む12人の王の連合軍が、オロンテス川のカルカルでアッシリア軍と会戦しました。アッシリア側は、この連合軍が敗走したと主張したが、その勝利は決定的なものではありませんでした。連合軍の進撃を食い止めた程度でありました。しかし、そののち前842年に王位を奪ったイスラエルのイエフはアッシリアに服従することにしたのです。
 前8世紀中ごろまでのアッシリアの軍事遠征の主な目的は、略奪品と貢納物を手に入れることでありました。
 しかし聖書では「プル」として知られているティグラト・ピレセル3世(前745〜727年)の即位にともない、領土拡大のための組織的政策が開始されました。反乱を起こした属国は冷酷に撲滅され、土地を奪われました。
 前738年に中央シリアのハマトの国が征服され併合されたあと、近隣の支配者たちは動揺し、アッシリア王への服従を申し出ます。イスラエルのメナヘムも、同様でありました。「メナヘムは銀一千キカルをプルに貢いだ。それは彼の助けを得て自分の国を強化するためであった」(列王記下15:19)。
 しかし、メナヘムの王位継承者ペカフヤは、愚かにも公然とアッシリアヘの敵対政策をとったのです。ダマスコと同盟を結んで、彼はユダを抵抗運動に加わらせようとしました。しかしユダのアハズは預言者イザヤの警告を無視して、ティグラト・ピレセルに助けを求め、神殿と宮殿の財宝からとった賄賂を彼に差し出しました。
 アッシリアの応答は速やかで、苛酷なものでありました。ダマスコは前732年に征服され、その領地はアッシリアの属州となった。イスラエルはガリラヤとギレアドを失い、その領土は首都のサマリアのまわりの狭い地域に狭められました。そのあとすぐにペカフヤは殺害され、ホシェアが、アッシリアの忠実な家臣としてイスラエルの王位につきました。
 しかし、前727年にシャルマネセル5世がアッシリアの王になると、ホシェアはエジプトのファラオと交渉を持ち、反乱を起こした。しかし彼の行動は致命的な失敗であったのです。エジプトの援軍は間に合わず、アッシリアはすぐに反乱を鎮圧しました。ホシェア自身は捕えられて、獄につながれました。
 包囲されたサマリアの町は王国の他の町が滅んだあとも2年間持ちこたえましたが、ついに前722年、降伏しました。シャルマネセル5世は数ヵ月後に死に、アッシリア軍は引きあげました。しかしこのわずかの期間に、新たに征服されたサマリアを含む西方の属国は再び反乱の機会をとらえました。アッシリアの王位の争奪者サルゴン2世が、西方の抵抗運動とその同盟軍を決定的に打ち破るのは前720年のことであります。サマリアは再度征服され、新しいアッシリアの属州サメリナの首都となってしまったのです。
 北イスラエル王国の首都サマリアの減亡は、預言者たちには、ヤハウェとの契約違反に対する神の懲罰とみなされました。勝利を得たアッシリア王サルゴン2世によって、サマリヤの滅亡のために2万7290人の住民が国外に移住させられたといいます。聖書にはこう記されています。「主はついに……イスラエルを御前から退けられた。イスラエルはその土地からアッシリアに移され、今日に至っている」(列王記下17:23)。

 
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