February

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イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
        (マタイによる福音書15章26節)
「日本聖書協会発行:新共同訳聖書」より
犬は人間のペットとして古い歴史を持っている動物です。 聖書にも犬は数多く登場します。
しかし、聖書は犬に対して冷淡な態度をとっています。
「聖書に犬がこんなに多く出てきました。でもこんなに「犬」を虐げられて書いているなんて可哀想になりました。「犬」は今は愛玩用として大事に育てられていますのに・・・。」
とこのHPに協力して聖書の箇所を探してくださったN姉がおっしゃっておられました。


マタ イ15:26〜27 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。
「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
マタイ 7:6 神聖なものをに与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。
それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
マルコ 7:27〜28 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。
子供たちのパンを取って、
小犬にやってはいけない。」
ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、
食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
フィリ 3:2 あのどもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。
切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。
ペトロ2 2:22 ことわざに、/「は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」また、/
「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」と言われているとおりの
ことが彼らの身に起こっているのです。
黙示録22:15 のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者/すべて
偽りを好み、また行う者は都の外にいる。
出エジプト11:7 しかし、イスラエルの人々に対してはですら人に向かっても
家畜に向かってもうなり声をたてません。
列王上 21:19 彼に告げよ。『主はこう言われる。あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を
自分のものにしようとするのか。』また彼に告げよ。
『主はこう言われる。の群れがナボトの血をなめたその場所で、
あなたの血を犬の群れがなめることになる。』」
列王下 8:13 この僕、こののどうしてそんな大それた事ができましょうか。
士師記7:5 のように舌で水をなめる者、すなわち膝をついてかがんで
水を飲む者はすべて別にしなさい。
サムエル下9:8 死んだも同然のわたしを顧みてくださるとは。
シラ 26:25 身勝手な妻は、あたかものようであり、/貞節な女は、主を畏れ敬う。
シラ 13:18 ハイエナとは、どうして仲良くできようか。
金持ちと貧しい者が、どうして和を保ちえよう。
哀歌 4:3 ですら乳を与えて子を養うというのに/わが民の娘は残酷になり/
荒れ野の駝鳥のようにふるまう。
イザヤ 56:11 このどもは強欲で飽くことを知らない。彼らは羊飼いでありながらそれを自覚せず/
それぞれ自分の好む道に向かい/自分の利益を追い求める者ばかりだ。
イザヤ 43:20 野の獣、山や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ/
わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。
イザヤ 13:22 立ち並ぶ館の中で、山が/華やかだった宮殿で、ジャッカルがほえる。
今や、都に終わりの時が迫る。その日が遅れることは決してない。
箴言 26:11 が自分の吐いたものに戻るように/愚か者は自分の愚かさを繰り返す。
詩編 63:11 剣にかかり、山の餌食となりますように。
詩編 22:17 どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/
獅子のようにわたしの手足を砕く。
ヨブ記 30:1 彼らの父親を羊の番と並べることすら、私はいまわしいと
思っていたのだ。
ヨブ記 30:29 の兄弟となり/駝鳥の仲間となったかのように
コヘレト9:4 でも生きていれば、死んだ獅子よりましだ。

 


詩篇22篇16節に「犬どもが私を取り巻き、……私の手足を引き裂きました。」とあります。この犬はイエス様を十字架に付けたローマ軍の兵士、つまり異邦人を指すようです。
と同時に、12節には「数多い雄牛が、私を取り囲み、」とあります。牛はきよい動物です。よってこの雄牛はイスラエル人を指します。
でも、イエス様を十字架にかけた時、異邦人はまだしも、きよい民のイスラエル人は真の王であるイエス様を取り囲んで悪口雑言を浴びせかけ、十字架につけました。何というかたくなさだっのでしょうか。
しかし、異邦人にはマタイ伝15章のスロ・フェニキヤの女の素晴らしい模範があります。彼女は最初イエス様に近づく時、イスラエル人と同じ立場で「主よ。ダビデの子よ。」と呼びかけました。しかし、イスラエル人は行いによって神様に近づこうとした民です。それは御心ではありませんでした。イエス様も彼女の思い違いを正すためにお答えになりませんでした。
そこで彼女は27節で「ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と言い、自分を小犬だと言い表しました。
 自らの立場を理解し、謙遜になり、その上でイエス様の憐れみを求めたのです。これこそ神様の方法でした。彼女はイエス様からその信仰をほめられた、たった二人の内の一人となることができました。
      


私たちは自分を表すべきではないのでしょう。聖なるイエスさまの御言葉を聞いても理解できない犬のような自分であるということをいつもわきまえ、謙遜でいなくていけないと思います。そして、自分は神様の無条件の愛によって救われた小犬だということが、私たちの勲章なのだと思います。


犬の祈り 

主よ
わたしは見張りをつとめます。
わたしがここにいなければ
だれがこの家を守るでしょう?
だれに羊の番ができましょう?
だれが忠実に見張りの役を果たすでしょう。
忠実とはなにか
わかっているのは、ただ
あなたとわたしだけなのです。
みんなはわたしを
  よい犬だ
  りっぱな犬だと
ことばでは言ってくれます・・・・・。
わたしがみんなの愛撫を受け
投げてくれる骨を受け取り
うれしそうな様子をみせれば
みんなわたしが本当に喜んでいると
思い込んでいるのです。
通りすがりに
けとばしていく人も
ときにはいますが、
それもたいしたことではありません。
わたしは見張りをつとめます。



主よ
この者たちからすべての危険が遠のくまで
どうかわたしを
死なせないでください。
                  アーメン