紀元前142年にヨナタンが敵将トリフォンの手に落ちて殺害されると、兄弟のシモンがヨナタンの後をついで大祭司となりました。
シモンは兄の立場を継承して軍事的指導者にして大祭司という立場に収まりました。シモンの時代にユダヤ人はエルサレムに駐留するシリア軍を撃退し、撤退させたことで、シリアから政治的独立を認められたのです。ハスモン家がダビデの血筋に属していないために、イスラエルの統治者にふさわしくなく、祭司としての正当性に疑問を持つユダヤ人たちも少なくありませんでしたが、ハスモン一族の政治的実績の前に、多くの人々が傑出した大祭司が見つかるまではシモンが指導者でもあり祭司であるのを認めることにしたようです。 こうして紀元前142年から紀元前135年にかけてのシモンの時代にユダヤはシリアからの事実上の独立を勝ち取ることに成功しました。ここに実に数百年ぶりにユダヤ人による独立国家が回復したのです。シモンは共和制ローマに使者を送って権威の承認を求めました。元老院はこれに応じて、シモンの政権を承認しましたが、残念なことに紀元前135年2月、シモンは娘婿であったプトレマイオスに不意をつかれて殺害されてしまったのです。 |
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シモンの二人の息子マタティアとユダは共に殺害されたため、三男のヨハネ・ヒルカノス1世がシモンの後を継ぎました。このマカバイ家の世襲支配によるユダヤ独立国家を、祭司マタティアの曽祖父ハスモンの名からハスモン朝と呼びます。ヒルカヌスの治世は紀元前135年から紀元前104年まで及びました。ヨハネ・ヒルカノス1世は軍事的才能と傭兵の力によって支配領土を拡大することに成功し、サマリアやかつてエドムと呼ばれたイドマヤにまで支配権を及ぼすことに成功しました。彼はイドマヤの住民をユダヤ教に改宗させています。それまで武力でユダヤ教を強制した例はありませんでしたので、これは驚くべき行為であります。また、彼はサマリア人とユダヤ人の宗教的対立を解決するため、ゲリジム山にあったサマリア人の神殿を破壊しています。(それでもサマリア人はその廃墟で礼拝を続けたそうですが。)この行為は結局なんの解決にもならず、それどころかユダヤ人とサマリア人の憎しみを増幅させる結果になってしまいました。
ハスモン朝の世襲体制に対して当初ハスモン一族の対シリア戦争に対して協力的だったユダヤ教の敬虔派などは批判に転じるようになりました。ハスモン朝のやり方は伝統的なユダヤ人の反感を買ったのです。この時期にユダヤ教敬虔主義からエッセネ派、ファリサイ派、サドカイ派が起こり、特にエルサレム神殿祭司層を中心としたサドカイ派と、在家で民間基盤の律法への忠実さを特色とするファリサイ派の対立が激しくなってきました。ヒルカノスはファリサイ派でなく、サドカイ派と接近し、統治体制に組み込むことで、ユダヤ教の指導層をつなぎとめようとしました。
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ヨハネ・ヒルカノス1世の時代、ハスモン朝イスラエルは古代のダビデやソロモンの王国に匹敵する最大版図を実現しました。
ヒルカノス1世が亡くなると、遺志によって彼の持っていた二つの権力、宗教的権威と政治的権威は分けられる形で後継者にゆずられました。すなわちヒルカノス1世の妻が「女王」として統治し、息子は「大祭司」として宗教的権威を持つことになったのです。しかし、その息子はこのやり方が気に入らず、母と自身の兄弟を投獄してまで権力を掌握するようになりました。これがアリストブロス1世です。彼は「大祭司」にして「王」の称号を持つというユダヤ的神権政治を具現した初めての人物となりました。それもつかの間、一年たらずあとの紀元前103年にアリストブロス1世は苦痛の中で病死してしまいました。
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アリストブロス1世の後はアレクサンドロス・ヤンナイオスというギリシャ風の名前を名乗った弟のヨナタンが後を継ぎました。彼は二人の弟と共に獄中にありましたが、アリストブロス1世の未亡人サロメ・アレクサンドラによって釈放され、彼女と結婚することで王位につくことが出来たのです。アレクサンドロスは紀元前103年から紀元前76年まで統治し、遠征先のラガバ要塞の包囲中に死去しました。もともとユダヤ民衆はハスモン朝に対して冷ややかであったのですが、ヤンナイオスは反対者に対して極刑で臨んだため、その恐怖政治にハスモン朝に対するユダヤ人の反感がさらに高まっていきました。
アレクサンドロスの後は妻サロメ・アレクサンドラ(在位:紀元前76年)、さらに息子アリストブロス2世(在位:紀元前67年〜紀元前63年)によって継承されました。本来は大祭司であった兄のヨハネ・ヒルカノス2世が王位をついでいたのですが、弟のアリストブロス2世が武力によってこれを奪取したのであります。この兄弟の争いがハスモン朝時代の終わりを早めることにもなるのです。 |
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このような事件に象徴されるようにヒルカノス1世没後のハスモン朝は内紛と混乱を繰り返し、数十年後のローマ軍の介入を招くことになるのでした。
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