August


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バビロンの流れのほとりに座り/シオンを思って、わたしたちは泣いた。 竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。 わたしたちを捕囚にした民が/歌をうたえと言うから/わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして/「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。
(詩編137編 1節〜3節)



 バビロンの流れのほとりに座り/シオンを思って、わたしたちは泣いた」(詩編137:1)。
 この悲痛な言葉は、故国から遠く離れて捕囚の民の生活をおくるユダヤ人の悲しみをうたったものであります。バビロニアにいたユダヤ人たちは、ユダにおける政治的および知的エリート階層を代表していました。紀元前597年、前587年、前582年の3回のバビロニアの捕囚により正確に何人のユダヤ人が連行されたのかは、聖書の記述が一致しないためよくわかりません。エレミヤ書52:30は全体で4600人と記されていますが、これはおそらく成年男子しか数えていないので、総数は1万5000から2万人に及ぶと見られます。



 ヨヤキン王とその王家を初めとして、ユダヤ人捕囚民の一部は都バビロンの市内に住むこととなりました。ネブカドネツァル王はバビロンを古代世界で最も壮麗な都に築き上げました。しかしユダヤ人記者にとっては、これは悪と頽廃の象徴となったのです。都の中央部をユーフラテス川が流れ都は2地区に分かれていました。
 ネブカドネツァルは3個所の宮殿に住んでいました。夏の避暑用の宮殿は、ユーフラテス川沿いに町から北にやや離れたところにありました。ネブカドネツァルの関心のひとつに骨董収集があり、北王宮には骨董の収集品が納められ、王室図書館を備える博物館がありました。南王宮は主宮殿で、それは多数の部屋が5つの中庭を取り囲む豪華建築でした。王は王座のある大広間で訪問者や官僚たちを迎えました。この広間の前面は、極彩色の彩釉れんがでできたライオンや、円柱や、花模様のモザイクで豪華に飾られていたということです。
 ヨヤキンはおそらくこの南王宮に軟禁されていたと思われます。ここで発見された粘土板の中に各国からの人びとへの配給品のリストがあり、そこにはヨヤキンと彼の息子、およびその他のユダヤ人たちの名がありました。
 このユダヤの王はまだ王としての地位を許され、ユダヤ人社会の指導者とみなされていました。さらにネブカドネッァルの後継者エビル・メロダクに恩赦を与えられ、宮廷の各種接待を受けるようになったのです。



 ヨヤキンが都バビロンの宮廷生活の贅沢を満喫していたころ、ほかのユダヤ人たちは南バビロニアに居住しました。ケバル川沿いのテル・アビブには大きなユダヤ人の町があったようです。この川はユーフラテス川より大商業都市ニップールを通って流れる運河です。ここで彼らは預言者エレミヤの教えを守って暮らしていました。「家を建てて住み、園に果樹を植えて……妻をめとり、息子、娘をもうけ……」(エレミヤ書29:5〜6)。
 バビロニア人の捕囚民に対する処遇は寛大でありました。彼らは自由に人に会い、財産を所有し、自分たちの習憤や宗教を保持することができたのです。少し後の時代のニップールの商業銀行の文書を見ると、1世紀あまりのあいだに捕囚民の中にはかなり裕福になった者も現われたということがわかります。ニップールのユダヤ人の多くは農民や、羊飼いや漁師でありましたが、中には市の下級官吏として働く者もいました。
 捕囚民たちは当然ながらバビロニア文化の影響を大きく受けました。彼らはアラム語を話し、アラム語のアルファベットを使用し、メソポタミアの暦を使用しました。またバビロニア人の名前をつける者も多かったそうです。しかし同時に彼らは、割礼や、食物、安息日の規定や習慣に特別な重きを置くなどして、ユダヤ人としての国民意識を保持しようとしました。
 確かにユダヤ人たちにとってバビロニアでの生活は悪いものではなかったのです、が、しかしこの時代は、イスラエルの歴史における決定的な転機のひとつと考えられました。エゼキエルはヨヤキンと同じ時に捕囚されたと思われますが、彼を初め預言者たちは、人びとに、いつかは愛する故国に帰ることができるという希望を持たせようと努めました。人々も「いつかエルサレムに帰れる日がきっと来る」と信じつつ捕囚の時代を生きたのでした。


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