ダビデの町にイエス キリストが生まれつきの盲人を癒す奇跡を行ったとされるシロアムの池があります。 紀元前10世紀頃、ダビデ王とその従者たちは水をくみ上げる縦穴から兵を送り、エルサレムの先住民エブス人の地を攻略しました。紀元前8世紀にはローマ帝国のヒゼキヤ王によって水道が建設されました。アッシリヤの侵略を予見し、攻撃に備えて給水設備を確保しようとしたヒゼキヤ王は、ダビデの町が立つ丘の下に、全長約880メートルのトンネルを掘らせました。このトンネルを通して、攻撃を受けにくい反対側のキドロンの谷のギホンの泉から、エルサレム側に水が供給されたのです。旧市街の城壁の外のギホンの泉からシロアムの池まで続く地下水道には現在も水が流れています。
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イエスがエルサレムの道を通っておられるとき、生まれつきの目の見えない人が座っているのをご覧になられました。弟子たちはイエスに尋ねて言いました。
「先生、この人が生まれながらに目が見えないという重荷を負って生まれてきたのは、誰の罪でしょうか。本人でしょうか。それとも親の罪が子に報いたのでしょうか。」
そのころのユダヤでは、病気や体に不自由なところがあるのは、罪を犯した罰だと考えられていたのです。
イけれどもイエスは弟子たちにこう答えられました。
「本人が罪を犯したのでもなく、またその両親が犯したのでもない。ただ神の御業が彼の上に現れるためである。」
イエスは生まれてから一度も、父母兄弟の顔も、自然の風景も見ることができないこの人を慈しまれました。
そして不思議なことに、自分のつばきで土をこね、その泥を盲人の目に塗られました。そして、「シロアムの池に行って目を洗いなさい」と仰ったのでした。 |
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その人は「この方は何故こんなことをするのだろうか。これにどんな意味があるのだろうか」と訝しく思ったに違いありません。けれども、彼は何も尋ねずにイエスのお言葉に従いました。すぐにシロアムの池に行って目を洗いました。
するとその人は生まれて初めて目が見えるようになったのです。どんなに嬉しかったことでしょう。一目散に家に向かって走って行きました。通りで彼を見かけた人々は非常に驚いて噂をし始めました。
「あれは物乞いをしていた目の見えない人じゃないか」、「いや、似ているけれども違う人だ」と言って騒ぎが起こりました。
男は「わたしがその目のみえなかった物乞いです」と、みんなの前で話をしました。びっくりした人々は、「それでは、いったいどうして今は見えるのか」と、寄ってたかって彼を問いただしました。
「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
彼がこう答えると、人々は「それではその方はどこにおられるのですか?」と興奮して聞きましたが、彼にはイエスの居場所もどこの誰であるかもわかりませんでした。
そこで人々は、この男をファリサイ派の偉い先生方のところに連れて行きました。こんな不思議なことは良く調べてもらう必要があると思ったからです。
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一方、ファリサイ派の偉い先生方はイエスのことを当然知っていましたし、ガリラヤでどんなことをしておられたのかということもちゃんと聞いていました。しかし、どうも彼は自分たちにとって危険な人物だというのが大方の意見だったようです。そして、ガリラヤの人たちばかりではなく、エルサレムの市民までもがあの男に惑わされたらたいへんだと危惧したのです。ですから、イエスに癒されたこの男は、まるで犯罪者であるかのように彼らの厳しい尋問を受けることになってしまいました。
ファリサイ派の先生方は、イエスが神様にしかできない御業を行ったということよりも、安息日にそれが行われたということを問題にしました。そして、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と結論づけたのです。 しかし、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者たちを納得させることはできません。そこで、そもそもそもこの男は本当に目が見えなかったのかということまで問題になり、とうとう癒された男の両親まで召されることになったのです。
両親はファリサイ派の先生方の厳しい尋問にびくびくしながら、こう答えました。
「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」
この両親の証言で、イエスが本当に目の見えなかった人を見えるようにしたのだということが動かしようのない事実であるということが明らかにされました。
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しかし、何としてでもイエスを罪人であることにしたいファリサイ派の人々は、もう一度男を呼びだして脅すように質問しました。
「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」
それに対して、男はとても物乞いをしていたとは思えない、意外な強さを示します。
「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
この神の救いの事実を前にして、ファリサイ派の先生方たちにはまったく為す術がありませでした。 |