オリエント全土を支配したペルシア帝国にも、やはり落日の日は訪れました。代わってマケドニアが興隆してきたのです。紀元前333年、小アジアのイッソスでの戦いにおいて、アレキサンドロス王はペルシアのダレイオス3世を撃破しました。しかし、すぐには敗走するダレイオスを追わずペルシア軍の地中海への出口を押さえるため、シリア・パレスチナ地方に南下してきました。そして、フェニキアの古都ティルスとパレスチナ南部の海岸都市ガザを手中に治めエジプトまで進軍してきました。
伝承では、イッソスから南下したアレキサンドロス王とユダヤ人の祭司が、エルサレムの門で対面したことになっています。大祭司は始めアレキサンドロスとダレイオスのどちらに付けば有利か解らなかったのですが、神のお告げを聞いてアレキサンドロスを歓迎することに決めたと言い伝えられています。
アレキサンドロスのほうでも、マケドニア出発の前にお告げに現れ、オリエント征服を励ましてくれた人物を大祭司の中に見出しました。そして、神殿に生贄を捧げ、ユダヤ人の宗教の自由を約束し、7年ごとの安息の年には税金を免除することを決めたということです。ユダヤ人社会におけるアレキサンドロスの不滅の人気の秘密を、これらの伝承から垣間見ることが出来ます。
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その後330年に首都ペルセポリスを陥落させて、ついにペルシア帝国は滅亡してしまいました。こうして古代オリエントの時代は終焉を迎えたのです。
この後、イスラエルは地中海世界の帝国に支配されることになります。アレキサンドロスは、わずか12年間でペルシア帝国の支配領域をすべて支配下に治めただけでなく、遠くインダス河にまで遠征して、これを征服し、一大帝国を築き上げました。
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地図提供:ウィキメディア・コモンズ
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しかし、前323年アレキサンドロスの早すぎる死の後、彼の征服した広大な領土は、彼の部下の将軍たちによって分割されることとなりました。アンティゴノスは小アジア、セレウコスはメソポタミアと北シリア、プトレマイオスはエジプトと言うように。セレウコスは新たに建設したアンティオキアを自分の国の首都と定め、プトレマイオスはアレキサンドロスの建てた町アレキサンドリアを首都としました。
ユダヤは最初エジプトを支配した、プトレマイオス王朝に、次にシリアを支配した
セレウコス朝の支配に、と幾度もの激戦に身を投じることになってしまったのです。 |