April



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災いだ、わたしの怒りの鞭となるアッシリアは。彼はわたしの手にある憤りの杖だ。 神を無視する国に向かってわたしはそれを遣わしわたしの激怒をかった民に対して、それに命じる。「戦利品を取り、略奪品を取れ、 野の土のように彼を踏みにじれ」と。 (イザヤ書 10章 5〜6節) 

 

 さて預言者イザヤの時代、ヨタムの次の王アハズは信仰心が全くなく主を拒み、アッシリアに助力を求めました。アッシリア王のティグラテピレセルに「わたしはあなたのしもべ、あなたの子です」と書き送り、イスラエルとシリアに対抗するための武力援助を嘆願したのです。それに反応してアッシリア王の対応は迅速でありました。アッシリア王の軍は、シリア・イスラエル同盟軍がエルサレムに到着する前に壊滅させてしまいました。ティグラテピレセルは2国を占領することになり、大勢の捕虜をアッシリアヘと連れ帰りました。


 このようにしてユダ王国は生き残るには生き残りましたが、その代償として独立を失い、アッシリアの重税を課せられるに至ったのです。その後、ユダの王は、アッシリアに対する忠誠の正式な証として、ダマスコに赴かねばならなくなりました。アハズは平身低頭して、ティグラテピレセルに近づき、主の宮と王の家の倉にある金と銀をとり、これを贈り物とし.てアッスリヤの王に贈りました。また、要請に応じて、アッシリアの神の祭壇に供え物をし、アッシリアの神々に向かって参拝までしたのです。
 さらにアハズは恭順の意を表するために、アッシリアの祭壇と同様のものをエルサレムの神殿に建立するように、国元へ指令を出しました。主の青銅の祭壇をめだたぬ場所に移し、そこにアッシュール神の大祭壇を安置させ、それ以後、アハズの供え物はすべて、この異教の神に対して捧げられるようになりました。ユダ王国再生の期待を砕かれたイザヤは、人々が真に神の言葉に耳を傾けるときが来るまで、沈黙を守って待つことにしました。彼はそれから18年間(紀元前734〜716年)、次代のために師の預言を書き写す忠実な弟子たちに囲まれながら、静かな生活を送ったとされています。

 

 アハズが715年に死ぬと、息子ヒゼキヤが後継者となりました。この断固たる新王は、ユダ王国の真の独立を心に誓いました。幸いにもアッシりア帝国の東方で反乱が相次いだときに、奪われた独立を奪還する好機が到来したのです。丁度、ようやく回復の兆しをみせてきたエジプトがユダを含むこれら小国に対して、エジプトに与してアッシリアに対して正々堂々と反乱を起こすなら軍事援助を惜しまないと伝えてきたのです。
 しかしその時、イザヤは突然沈黙を破り、エジプトのごとき不安定で実績のない国に自国の命運を委ねるのは、愚行であると主張しました。エルサレムの民衆は、預言者が腰布をつけてはいるものの、「裸、はだしで」町の通りに突然姿を現わしたので驚きました。そのうちにアッシリアのサルゴンはアッシリア内部の反乱を鎮圧し、エジプトと緒んだ小国を次々に滅ぽしていきましたが、ユダ王国には手をつけませんでした。もちろん、ヒゼキヤがエジプトとの同盟に加わらなかったからであります。

 

 この危機が去るとすぐに、'ヒゼキヤは一連の宗教改革に着手し始めました。ヒゼキヤの治世の下で人々の暮らしが良くなるにつれ、ヒゼキヤはアッシリアの支配に対してますますいらだちを覚え、国家を統合して新たなダビデ王国をつくろうと企図し始めました。
 サルゴン2世が戦死して、その息子セナケリブが即位すると(紀元前705年頃)、ヒゼキヤはアッシリアに対抗して、バビロニア、フェニキア、エジプトとの軍事同盟の結成にかかりました。エジプトが軍事援助を申し出たことによって、イザヤは再び猛反対し、エジプトに頼って反乱を起こす愚行を戒めましたが、ヒゼキヤは、今度は預言者の忠告を無視して戦いの準備を進め、自軍のために多数の新しい槍、刀、矢、盾といった武器を整えました。また、アハズがアッシリアに屈したときに破壊されたままになっていた、ユダ王国の砦を再建するように工兵隊に命令を下し、町の外壁を修繕させました。



 また、何世紀も以前に建造してそのまま使用していた野外水道に代わり、敵の目に隠され攻撃されにくい新しい地下水道設備の造設を決めたのです。オペルの丘を通ってギホンの泉までトンネルを掘り、新しい貯水池を造って、その周囲に市の外壁を巡らして、貯水池を守る計画でした。これが有名なヒゼキア水道です。



 一方、アッシリアのセナケリブはバビロニアを征圧し、軍勢をエルサレムに向けていました。紀元前701年に至るまでには、彼は11の国を次々に征服したので、残るはユダ王国だけとなりました。同盟する者もなくなったヒゼキヤは、エルサレムの門近くの広場に軍の司令官を集め、「心を強くし、勇みたちなさい。我々と共にいる者はわれわれの神主である」と宣言します。
 しかし、形勢はイザヤが預言したとおりになり、ユダ王国の小さな町々は次々にアッシリアの手に落ち、要塞堅固と言われた都市ラキシでさえアッシリアの武力には対抗しえないことが明白になりました。ヒゼキヤは何度か戦闘と降伏を繰り返しましたが、再度ユダ王国に侵入したアッシリアのセナケリブが降伏を勧める中、とうとうイザヤに神様の導きを依頼しました。老年に達したこの預言者は、王に対して、「降伏してはならぬ、主が主の僕ダビデのためにこの町を守って、これを救うであろう」と神託を下しました。



 ヒゼキヤがアッシリアに降伏拒否を伝えると、セナケリブは軍勢を率いてエルサレムを包囲しました。しかし、イザヤの預言どおり、その夜のうちに主の使いが出て、アッシリアの陣営の18万5000人もの兵を撃ち殺してしまいました。主の力によってエルサレムは守られたのです。
 その翌年、残念ながら、ヒゼキヤは他界してしまい、その息子マナセが即位しました。マナセは王位に就くと直ちにアッシリアに屈服してしまいます。彼は父親の志と業績をことごとく葬り去ろうとしているかのように悪政を行い続けたということです。

 


 その後もイザヤは「主にあがなわれた者は帰ってきて、その頭にとこしえの喜びをいただき、歌いつつシオンに来る。彼らは楽しみと喜びとを得、悲しみと嘆きとは逃れ去る」と、主との契約を守り続けた少数の人々に神様の贖いがあることを約束しました。
 イザヤはその強い信念のゆえに、その後の王との確執を広げ殉教されたと言い伝えられています。

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