April


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野兎も反すうするが、ひづめが分かれてい ないから、汚れたものである。
(レビ記 11章6節 )
「もしわたしたちが、キリストと一体になって、その死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、、もはや死の奴隷にならないためであると知っています。」   
(ローマの信徒への手紙6章5、6節)



 3月の下旬から4月の上旬キリスト教の伝統を持つ国では「イースター」という祭があります。春分の日の後の満月の次の日曜日で、今年は4月20日です。
この日にイエス=キリストが復活された?......たしかに復活されたとは聖書に書かれています。けれども、この日だとは書かれていません。
 このイースターは、当時のゲルマン人の間で信じられていた春の女神、イースターから発したものなのです。紀元325年、ローマ帝国のコンスタンチ帝が、この日をイエス様の復活された日とする、と決めたそうです。 起源を見るとイースターは、あまり聖書的なお祭りではないようです。
 でも多くの教会では、イエス・キリストの復活を信じ、この日を特別な日と考え、お祝いの礼拝をします。ゆで卵に、絵の具などで色鮮やかな模様を書いたりシールを貼ったりして配ります。時にはこれらの卵を、こっそり花びんの中や庭の隅々、草の陰などに隠します。子どもたちは小さなバスケットを持って、卵を探し、友達と見せ合うなどして楽しむようなこともあります。



 では、どうして卵なんでしょうか?
 卵=イースターエッグ(Easter Egg)の由来については諸説ありますが、一般的なも のとしてはイースターまでの期間中、鳥の卵を食べることを禁じられていたのですが、(肉類も同様。この間は魚を中心とした食事をしていました)イースター を迎えた直後、卵の食事も解禁となり野山にでて卵を探した、とされるものです。この際、卵がどこにあるか分かりやすいように宝石などできらびやかに飾った、 との説もあります。卵は生命の誕生・復活を意味し、キリスト教の教えの中でも特に重要視されていました。
 キリスト教国の子どもたちはこれらの卵は「オーステルハーゼ(イースターラビット)」と呼ばれるウサギが、運んでくるものだと信じています。サンタクロースがクリスマスにプレゼントを運んでくるのと同じ感覚です。子供達が野ウサギの巣を編んで納屋などの周りにおいておきます。子供達が「いい子」だったら、野ウサギがイースター・エッグを夜のうちにおいていってくれる、という言い伝えがあったようです。


 この「イースターラビット」 (Easter Rabbit)は、どうしてウサギでなくてはならないんでしょうか?
 実は野ウサギは、まばたきをしないのだそうです。夜空の星はまたたくのに、月は瞬きません。そのことから月と野ウサギは関係があるということになり、いつしか野ウサギは春分の次の満月の夜、卵を運んでくる使者と言うことにされたのだそうです。また、ウサギは神聖な存在とされており、一度に沢山の子供を産むので誕生の象徴でもあるのだそうです。



イースターの「たまご」にまつわる話しとして、こういうのがあります。
スコットランドの教会では「たまご」はイエス様が復活して、墓から出て来る時、転がした「岩」のシンボルとしています。
この「岩」が転がり、墓から出てこられた。
そして、神様が素晴らしい救いの道という真理を知ることが出来ました。
イエス様が来られるまで、聖書は「おおい」がかかったもの、よく意味が分からないものでした。
しかし「岩」という「おおい」が取り除かれたとき、聖書が一貫して語っている、神様の救いがわかったのです。

 ではキリスト教徒が祝う復活とは、どういうものなのでしょうか?
イエスの復活は信じる対象ではなく、信仰の根拠なのです。わたしたちに対する神の側からの働きかけの出来事であり、わたしたちの生の意味を与え、わたしたちの生き方を変えていこうとする出来事なのです。
『キリストの復活の奇跡は、わたしたちを支配している死の絶対化を根底から覆すものである。死が絶対的なら、今の生が全てであるか・空しいかのいずれかである。しかし、死の力が打破されたことが、つまり死の世界の只中に 復活と新生の奇跡が輝いたことが認められるところでは、人は人生を永遠のものとして期待したりはしないで、 人生が差し出すものを、良いことも悪いことも、大切なものも取るに足りないものも、喜びも悲しみも痛みも、 受け止める態度を取る』(ボンへッファー)。これは一人のキリスト者の、復活によるいのちの歩みの証言です。
 そして、キリストの復活は、このようにわたしたちの生が生きるに値するものであることを確信させてくださるのですから、わたしたちは生活を通して復活のいのちを証しする者でなければならないと思うものです。
 「イエスは本当によみがえられた」(20節)。これはロシア正教会のイースターの挨拶だそうです。わたしたちもこの挨拶を交わしながら、日々を主に従って歩みたいと思います。
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