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2026.6 須賀 工 (すか たくみ)
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なぜ、わたしをお見捨てになるのか 詩編22篇1節
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詩編22篇は、神に対する強烈な疑念と嘆きの言葉から始まる。しかし、読み進めていくと神様への信頼と賛美の言葉で閉じられている。人間の内にある心情の起伏がよく表現された詩の一つであると言えるが、実は、この詩人は、終始、神様を信頼していると言えるだろう。なぜなら、もし、神様を信じていなければ、そもそも、こういう嘆きは生まれないからである。
例えば、人間は、誰しもが、自分自身の力では、乗り越えられないような苦しみや悲しみや不安を経験することがある。「神様、なぜ見捨てたのか」と嘆かざるを得ないことがある。しかし、そもそも、神様の存在を信じていなければ、こういう嘆きは生まれないのである。神の存在を否定していては、神様への嘆きは生まれないはずなのである。
それゆえに、この詩人は、明らかに神様を信頼し、その信頼の中で嘆き、悲しんでいるのであり、神様は、その声をしっかりと聴いたうえで、最後の最後には、詩人の言葉を賛美の言葉へと変えてくださるお方なのだ。
主イエス・キリストが、十字架上で、この詩編22篇の言葉を最後に語られたことは有名である。新共同訳聖書は、丁寧に「エロイ・エロイ・レマサバクタニ」(わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのか)と表記している。この言葉は、正確な言葉でなく、実際には、ヘブライ語やアラム語などの複数の言語が混ざっている言葉であるといわれる。つまり、まともに言葉が話せないほどの苦しみを、御子は負われたのである。まさに言葉にならない嘆きである。本来、この嘆きは、私達が負うべきものであるが、身代わりとなって、主が負われた。私たちは、このキリストを通して、嘆きの日々に終止符を打つことができるのである。言葉にならない嘆きがある時、私達は、このキリストの嘆きを思い起こし、今、ここにも神様がともにいるのだという幸いに立ち帰るものでありたいのだ。
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