牧師コラム

 

第21回 満ち足りる人生
2026.1  須賀 工 (すか たくみ)
 わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み
 目覚めるときには御姿を拝して
   満ち足りることができるでしょう。  (詩篇17篇15節)
   
 これは年末のことです。私はとある飲食店で食事をしていました。たまたま、隣の席にいる人とお話をする機会が与えられました。その人は、次のように聞きました。「仕事は何しているの?」私は答えました。「キリスト教の牧師と教会附属幼稚園の園長をしています」と。次に、その方は、このように聞いてこられました。「年齢はいくつ?」私は答えました。「41歳です」と。すると、その方は、次のように言いました。「厄年になるではないか。厄除けにいかないと駄目だ。大変な人生になるぞ」私は「心の中」で次のように語りました。「牧師っていったんやけどなぁ…」この会話に対して、誰も何も言いません。厄年や厄除けというのは、もはや一般化したものになったのかなと感じました。
 41歳は前厄、42歳は本厄(「死に」の語呂合わせという説もある)、43歳は後厄ということで、私はどうやら3年も厄に支配されるということらしいです。そういえば、最近、疲れやすくなったなぁ、鼻づまりがいつまでも治らないなぁ、腰や肩もいたいなぁ……とは感じていたのですが、これはたぶん老化や風邪ではないか……とも感じています。
 人間は完全ではありません。塵から造られたものでしかないからです。年齢を重ねれば、シンドイと思うこともあります。それを、まるで天からの災いのような「厄」として理解するよりも、一つひとつが与えられた賜物として「楽」(うれしい、たのしい)となれば、良いなぁと感じるこの頃でありますが、シンドイことは勿論シンドイものなのです。
 キリスト教において、満ち足りた人生というのは、「正しさを認められる」ことです。これは、神様の目に「正しい」「御心に適った」ものとなるということです。自分の正当性が認められるというよりは、神様の目に良いとされることでありましょう。そして、私達は、それが「キリストを着る」「キリストと一つとされる」ことによって実現すると信じています。そのような大きな恵みを実感できるのは、「御顔を仰ぎ望み、御姿を拝する」時であります。要するに、「礼拝」が大事なのです。
 私達は、礼拝を通して、キリストと出会い、キリストと一つとされることを実感し、そのことのゆえに、満ち足りたという幸いを味わうことができるわけです。シンドイこともあります。辛いこともあります。悲しいこともあります。けれども、「満ち足りた人生」だと、高らかに宣言できるのは、礼拝の中におけるキリストとの出会があるからなのです。礼拝を抜いてしまうとシンドイ気持ちしか残りません。シンドイけど、どこか満ち足りている。そのような恵みを頂く礼拝生活を2026年も送りたいと思います。